2023年07月07日

今後必要とされる会話のスキル

ここ最近社会システムの変化のスピードが非常に速いな、と私は感じています。

当然のことながらこの変化に伴って、必要とされる会話のスキルも変わってくるとも私は考えています。

そこで、今回は私が考える「今後必要とされるであろう会話のスキルとは何かということについて書いていきます。


☆☆☆☆☆☆☆


1 簡潔に話すスキル

これ、日本語教師の文脈で何度か書いていますが、学習者にも将来的には必要とされるスキルだろうと思います。

もうね、現代人は忙しいし、タイムパフォーマンスという言葉が一般化してくるくらい無駄な時間というのが嫌われてきています。

なので、今後はできるだけ利き手の時間を奪わない話し手が喜ばれ、逆に長ったらしい話をする人は嫌われるということに。

できるだけ利き手の時間を奪わずに話す = 簡潔に話すスキルを用いて話す

ってこと。

現代人は、例えば大学の授業が少しでも冗長だと感じたら、学生はすぐにスマホを触り始めます。

そうならないように、テンポ良く簡潔に話すスキルが求められるわけです。

少し話は変わりますが、2016年に「君の名は。」という映画がヒットしたのを覚えていらっしゃるでしょうか?

この映画のヒットの理由についていろいろな分析があるのですが、私が「なるほど!」と思ったのが、

ストーリー展開のテンポが速かったから

というもの。

先ほども書いたように展開がスローだと、見ている人の中には(映画館では禁止されているとはいえ)スマホをいじる人が出てくる恐れがあります。

逆に息をもつかせぬ展開だったからこそ、冗長さを感じさせずそのスピード感を快く感じ、ヒットにつながったというのです。

これは、私も肌感覚でよくわかります。

最近動画のサブスクで私が小学生の時に見ていたドラゴンボールや聖闘士星矢を見る機会があったのですが、かったるいことかっtるいこと。

ストーリーの進行が遅すぎるんですよね。

このことは、スマホの登場によって私たちは知らず知らずのうちに時間感覚が変化してきたことを意味しています。

相手にかったるいと感じさせない話をする、つまり無駄を削ぎ落としてできるだけ簡潔に話すスキルが求められます。


2 自分の意見を表明するスキル

アジア人の学生を教えていると、自分の意見はないの?と思えることが非常に多いです。

何処かから引っ張ってきた受け売りの意見や、それが理想的だとされる意見を述べるだけ、的な。

これは意見とは違いますが、「〜といえば」の練習でほぼ中国人ってクラスで「フランスといえば?」と聞いたところ、100%「香水と答えていて、その画一性に驚きました。

また、「1人では生活が困難な老親は誰が面倒を見るべきか?」と聞くと、アジア人は100%「子供」と答えます。私が子供が親の面倒を見るのが困難な条件を設定しても一貫して子供なんですよね。

もう刷り込みに近いレベル。

今まではありきたりな意見や聞き齧りの意見を表明していても、(欧米圏以外では)あまり問題はありませんでした。

ところが、今後はそうはいかなくなります。

なぜなら、ITが急速に進化しているからです。

まず、Googleの登場で調べ物が格段に容易になりました。

そして、昨今のChatGPTでは解説や助言をAIがやってくれるようになってきました。

そうすると、人間しかできない会話のスキルがどんどん限られてきますよね?

そういう会話のスキルの中で、どんなにAIが発達したとしても人間に残されるのは、自分の意見を持ちそれを表明するスキルです。

なのでこれからは、正しい意見(というものが存在するのかどうかも疑問ですが)を話すよりも、自分のアタマで考えたオリジナル意見をもち、それを話すスキルが求められるのではないかと考えます。

その重要性については、こちらの書籍を読んだらいいと思います。





3 雑談ができるスキル

これ、超高度です。

なので、私はこのスキルは語学学習の最終段階だと考えています。

私は雑談の難しさは、ひとえに

その時の話の流れでどんな話題になるかわからず、事前に準備ができない

ところにあると考えています。

つまり、雑談を行おうとすると、その構成メンバーにもよりますが、かなりの広範な知識が必要とされるわけです。

私が2拠点生活そしている備前市の畠田で、私が庭仕事に邁進しているということを知っている近所のおばあちゃんが私の家の前を通り、立ち話をしていた時のことです。

「私の家の庭を観にくる?と言ってくださり、ご好意に甘えて見学させてもらった時に、見慣れない黄色の花があったので、その花の名前を聞いたのですが、「ど忘れしたわ」とのことで、その時はそれで終わりました。

その後また庭先で会った時に、「思い出したん。八重の山吹じゃったわ。」とおっしゃって、「七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき っていう短歌があるでしょ?その歌の通り、八重咲きの山吹は豪華だけど、実がならないのよね〜」と言われて驚愕しました。

えっ、畠田って、庭先の雑談で和歌の知識が必要とされるの?と思ったから。

私は高校時代古文は割と得意で、短歌も一般の日本人よりは知っている方だと思っていたのですが、この歌は知りませんでした。

さらに、昔はイケメンだったんだろうなっていうおじいちゃんと立ち話をした時も、最終的に地質学の話になり、非常に勉強になったりもしました。

まあこれは極端な例だとしても、雑談をするメンバーの職種や属しているコミュニティによっては、そのジャンルをあまりにも知らないと、話は弾まず尻すぼみになりそう。

でもね、スポーツクラブに通っていた時によく思っていたのが、筋トレや有酸素運動をしにきているというよりは、雑談をしにきている人が意外と多いってこと。

高齢者の人が多いのですが、そうでない人も結構いたりします。

ただ、高齢者の方って長く生きている分いろいろな経験をしていたり知識も豊富だったりするので、彼らと雑談をする時にはかなりの知識が必要とされることは想像に難くありませんよね。

1の簡潔に話すスキルとは対照的ですが、相手によってはダラダラと雑談ができるスキルが必要とされるのではないのか、とも思います。


未だに「予約をするとか「問い合わせる」といったスキルを身につけさせようと思っている日本語学校もあるんだとは思いますが、それは今後も必要とされると思いますか?

あなたはどう思いますか?


ほな、さいなら!


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akky_san at 20:08|PermalinkComments(0)

2023年06月09日

教えても教えても残らない学習者への宿題の出し方

私は基本的に、あまり制限のかかった宿題をさせるのは好きではないので、その日教えた日本語を使って自由に文を作ってもらうのが好きです。

なので、授業では提示したりはしますが、全件のみとか後見のみを考えてもらうようなものも、宿題としては出しません。

まあ自由に文を作るといっても初級の前半などでは彼らが持っている日本語が少なく作れる文の内容も限られてはいますが、そういう数少ない持ち駒をいかに使うかという工夫が必要になり、そこで自分のアタマを使うことになるので、そういうのもいい練習になるのかな、と。

ところが、ここ最近、そういう宿題の出し方が、

あくまでも教えれば日本語が蓄積されていく学習者 

を前提にしたものだったんだな、と気付かされました。 

それくらい、教えたことが全く残らず、次の日には忘却の彼方っていう学習者たちのクラスを今教えているんですよね。

もうね、気持ちがいいくらい覚えてません。

逆に、前日教わったことをそんなにキレイサッパリ忘れるにはどうしたらいいの?、などと問いかけたいレベル。

つまり、インプットが不十分な状態なんです。

そして、このクラスにも教えた文法を使って自由に文を書いてくるという宿題を出しています。

が、やはりというかなんというか、中にはオリジナリティのある文を作ってくる学生もいることはいますが、大半が教科書の例文や授業中に教師が提示した文をそのままコピーして買いてきちゃうっていう。

無理もありません。

だって、習った日本語が残ってないんだもん。

そしてこれは、習った文法の意味も使い方も家に帰った段階で分からなくなっている、とも言えます。

そりゃー習った日本語で自由に文を作るなんて夢のまた夢。

なので、逆に考えると今までやっていたようなアウトプット(自由作文)ではなく、インプットのための宿題が有効ではないかな、と最近考えました。

そこで、今回、こんな状況のクラスの宿題の出し方を提案したいと思います。


1 漢字練習

このクラスは全員が非漢字圏の学習者で、漢字が苦手です。

因みに↑の文、「学習者だから」とか「学習者なので」ってなってないの、お気づきですか?私は「非漢字圏の学習者だから漢字の能力が低い」とか「非漢字圏の学習者は総じて漢字が苦手だ」といった因果関係でよく語られる内容に疑問を持っているんですよね。非漢字圏の学習者に対する漢字指導と、因果関係については、またそれぞれ別立てでエントリを書こうと思っています。

ここで書いた漢字練習というのは、日本の小学生がジャポニカ練習帳でやっているような、毎日決まった漢字をたくさん書いてくる宿題、というイメージ。

毎日毎日相当な分量の漢字を書き取ることによって、漢字のインプットにつなげる狙い。

先ほどの間違った因果関係のように、学習者側も「日本人だから漢字の読み書きができるのだ」と思っているフシがあるんですが、そうではなく日本人も何回も何回も書いてやっと漢字が覚えられるのである、っていうことを身をもって理解してほしいな、と。


2 活用形の反復練習

これも漢字練習と同様、例えば1日10個の動詞の「て形」をそれぞれ10個ずつ書いてくる、といったイメージ。

ホンマに活用形も全然覚えてません。

というか、日本語には活用があるってご存知ですか?、などと聞きたくなるレベル。

なので、これも反復することによって定着を図るのが目的。


この1と2の宿題の最大の特徴は、

ズルや省エネが不可能である

ってこと。


あともう1つ思うのは、これをやっても定着しなかったら、もうお手上げかもってこと。


3 教えた日本語が含まれる文をその学習者の母語で提示し、それを日本語に訳す

1と2については、思考停止状態でもできる作業なんですよね。

それに、1と2の宿題だけだとあまりにも偏っていて、カバーできる範囲が限られてしまい、最終的に日本語の文を作るところまで到達できません。

なので、自分のアタマを使って日本語の文を構築する練習が必要になってきます。

ただ、自由作文や前件/後件の文完成の宿題を出しても、先ほど書いたようにコピーしたり前後の関係などを考えず訳もわからずとりあえず日本語を埋めるという結果になりがち。

そこで、敢えて学習者の母語の文を日本語の文にする、という宿題はどうかな、と思ったわけです。

彼らの初級の時のメイン教材は基本全部訳が書かれていて(←個人的に、これもどうなのかなとは思いますが)、その逆バージョンです。

ただ、これは諸刃の剣で、1と2の宿題とは異なり、ズルができてしまうんですよね。

学習者が自宅でGoogle翻訳にかければ、すぐに答えが出てくるので。

なので、状況が許せばこの宿題は「希望者のみ」にしてもいいかも。

ただ、そうすると掬いきれない学習者が出てくるのも事実で、悩ましいところかなと。

それでちょっと思ったのは、この翻訳の文にまつわるテストを翌日するにはどうかな、ってこと。

テストでいい点数が取りたい、とか、テストで悪い結果は避けたいといったようなインセンティブが働けば成立しそう。

テストに関しては、面白い記事を読みました。




この内容をなんとか日本語学習に繋げられないかなと、現在思案中です。

また何か思いついたら、またエントリに書きます。


ほな、さいなら!

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akky_san at 19:30|PermalinkComments(0)宿題 

2023年06月02日

学習者起点とトレードオフ

何だか最近、日本語学校とか日本語教師の人って、ことごとく教師起点だなってつくづく思うことが多いです。

教師起点っていうのは教師サイドの信念や方針を出発点として思考をスタートさせるってこと。

それに対して、学習者起点っていうのは、楽手者側からのニーズやウォンツ、要望などから考え始めていくこと。

私がこのブログでずっと書いてきた「学習者ファースト」も私の中では同義です。

以前こんなエントリを書いていますが、




依然として教師起点って流れは変わらないのだなと思って、今回のエントリを書いています。 

いくら学習者のためって思っていても、それが教師側からの発せられたものであれば、それは教師起点ってことになります。

 
で、ここにトレードオフである価値Aと価値Bがあるとします。

トレードオフというのは何回も書いていますが、あちらを立てればこちらが立たずといったような、両立させるのが不可能な関係のこと。

これを理解してない人って結構多い。

その結果、二兎を追うものになってしまい、どちらの価値も獲得できなかったり中途半端な結果になっているっていう。

私が2拠点居住をしている備前市の例を出すとわかりやすいかもしれません。

備前市は備前焼が有名で、伊部という街に備前焼のお店が集中しているんですが、観光客や買い物客は土日も非常に少ないです。

大阪では、こんな所まで来て何を見るの?って聞きたくなるような何もない住宅地などにも外国人観光客を見たりするので、それを考えると非常に外国人が好きそうなエリアである伊部に外国人がほぼいないのにはちょっとビックリします。

このような状況の最も大きい理由は、ネットやSNSなどへの発疹が非常に少ないってこと。

それでも来たお客さんが少なくても備前焼を買ってくれればいいのですが、あまり売れていません。

なぜなのか?

それは単純で、「お客さんの欲しい作品がないから」

です。

つまり、備前焼作家起点になっているってこと。

作家さんはマーケターではないので、統計的なデータを集めどういうニーズがあるのか、などということを調べたりしません。

結果的に作家さんが作りたいものや、「多分こういう作品なら売れるだろう」という根拠のない思い込みで作品を作ったけど売れないっていう。

もちろん作家さんはアーティストでもあるので、作りたいものを作ればいいとも思うのですが、もしそうであれば「もっと売りたい」とか「もっと売れてほしい」という願望を持つのは間違っているのでは?

つまり、ここでトレードオフになっているのは、作家さん起点と消費者起点です。


ここで日本語教師に話を戻すと、同じように教師起点と学習者起点はトレードオフになっています。

それに加えて、これ以外にも日本語教育には様々なトレードオフが存在します。

例えば、4技能をバランスよく伸ばす、というのと、とにかく話せるようにさせる、というものです。

また、漢字の授業をしない、と、日本語の語彙力を増やす、というのもトレードオフ。

そして、初級でできるだけ文法を教えない、ということと、中級以上のレベルに引き上げる、もそう。

思うような成果が出せていない日本語学校は、このトレードオフが理解できていないのではないのかな、と。

ここで、これを読んでいる日本語教師の方に聞きたいのですが、成果Aと成果Bがトレードオフだった場合、あなたはどうしますか?

もし私なら、学習者にどっちの成果が欲しいか聞きますね。

非常にシンプルじゃないですかね?

仮に、独特な進め方をする教材があり、それで教わるとJLPTに合格しにくいといった状況があった場合、私だったらその教材で教わることで得られる成果と、JLPTの合格とどっちの成果が望ましいか聞くだろうと思います。

もちろん、私に教材選択の決定権がある立場であれば、の話ではありますけど。

私は、教師の面子や立場、信念よりも、学習者の求めることに応えることのほうがプライオリティが高いと考えているからです。

本当にもうそろそろ教師起点から脱却してもいい時期に来ているんじゃないか、と思います。


ほな、さいなら!

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