学習

2022年10月13日

外国語の中級以上のレベルのコミュニケーションにおいて忘れられがちなスキル

前回、こんなエントリを書きました。




この中で私はスペイン史についての本を読んでいるって書いてて、その理由に「何度読んでもよくわからないから」ってことを挙げました。

2つ目に挙げたいのは、「ただ単に知りたいから」。単純な知的好奇心ってこと。

そして、意識的にスペイン史の本ばかり読む3つ目の理由は、「歴史 = 教養はコミュニケーション上の武器になると思っているから」です。

穿った見方をすれば、前の2つとは異なり「打算的な理由」であるとさえ言えます。

つまり、スペインの歴史を知っておくことは、スペイン語でのコミュニケーションを行う上で非常に有利なツール、すなわち武器になると思ってるんですよね。

話の中にちょっと私が興味がある歴史の話に触れただけで、「なんでそんなこと知ってるの?」となり、話も盛り上がるだろうし相手の記憶にも残りやすくなるんじゃないのかなと。

逆に、例えばスペインだと、レコンキスタも、無敵艦隊も、大航海時代も(この辺りは侵略の歴史でもあるので、話題にするのはもしかしたらビミョーかも)、スペイン内戦もナーンにも知りません、って人とスペイン語でコミュニケーションを取りたいと現地の人は思うでしょうか?

また南米だと、マヤ文明もインカ帝国もナスカ文化も宗主国からの独立の流れも全然知りません、って人はどうでしょう?

今私は歴史を例に出していますが、アートやスポーツ、サブカルチャーなども同様です。

例えば、マドリッドの人に「私はレアルマドリッドの◯◯選手のファンなんです」と言って嫌な顔をされることは考えにくく、サッカー談義に花が咲くでしょう。


私は、

母語でその言語や国についての教養を身につけた上で、それをコミュニケーションの武器にする

、って戦略もアリなんじゃないの、と考えています。

ただし、初級レベルでは難しいので、少なくとも中級以上であれば役に立つはず。

こう考えると、

そういった教養はコミュニケーション上の立派なスキルである

、とも言い換えられます。

しかしながら、現在の日本語教育ではこういったことはコミュニケーションのスキルだとは見做されていません。

まあ最も近いのは「相手への配慮(相手の知っていそうなことを極力話題にしたり、相手が知らなそうなジャンルの専門用語の使用は避けたりする)」かな、とは思いますが。

でもね、例えばイギリス人との商談を成立させようとしたとき、シェイクスピアの作品を一部分でも読んだことがありそれを表明できたのであれば、非常に有利に商談を進められ、競合に勝って契約を取れるといったこともあり得るのでは?

教養は目的遂行に非常に大きな影響を持っていて、結果を左右するんです。

さらに、教養は発音や流暢さといった「口頭能力」のスキルだけにとどまらず、テキスト(文字情報)のやりとりにも有効。

私は2016年の段階で、将来はテキストでのコミュニケーションが多くなっていくと書いています。




なのでそうなったとしても、教養は非常に重宝されます。


☆☆☆☆☆☆☆


ここ最近、こういった教養が注目されていて、「教養としての◯◯」みたいな本がいっぱい出てますよね?

こちらは、Amazonで「教養としての」で検索をかけた結果です。

Amazon 教養としての


そして、こちらは楽天市場。

楽天市場 教養としての



本当にラッキーなことに、私たちはこういった教養に触れ易い環境に囲まれつつあると言えます。


因みにこの検索結果で私が気になっているのはこちら。




ちょっと読んでみたいかも。


このような本を読んでみるのもいいし、「教養を身につけよう!」などと意気込まなくても、少しでも自分が興味を持っている分野の本を読んでみるのはどうでしょう?

おそらくそれは、外国語でのコミュニケーションの中だけでなく、あなたが日本語教師であればきっと授業の武器にもなるはず。


そして、私は私で、こういう教養をコミュニケーションスキルの基準にどうやって組み込んでいくか、考えてみたいと思います。


あと、次回は今回の内容に絡んで「こういうスペイン語のテキストがあったらいいな」っていう希望と、教科書に対する好き嫌いについて書いてみたいと考えています。


ほな、さいなら!


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2021年09月29日

学習する言語の新しい選び方

まず前提として、言語を学ぶ必要に迫られていない学習者のことです。


☆☆☆☆☆☆☆


新型コロナのせいでというかおかげでというか、働くことと出勤することの違い、大学進学や留学の意味など、コロナ前とコロナ後でガラッとパラダイムが変わってしまいました。 

中でもとりわけ私たち日本語教師に関わりが深いのが留学です。

外国人留学生の入国が本格的に再開するのがいつなのかは今の段階では分かりませんが、仮に再開されたとしても日本留学の性質はコロナ前とは異なっているんじゃないかと、私は考えています。

このブログで何度も書いてきたように、 日本語学習者の場合、個人的な趣味が動機になっていくんじゃないかと考えています。


一方で、もし私自身が新しく言語を学習するとしたらどういう基準で選ぶだろうと考えてみました。

今、時間はたっぷりありますから語学学習を始めないとも限りませんし。

とはいえ、現実的にはスペイン語学習はサボり気味なのでそっちを優先するのが正しいのですが、それはちょっと置いておきます。

というか、そもそもどうして私はスペイン語の学習をサボるのだろうというように考えていくと、ある事柄が浮かび上がってきました。

それは、

日本語とスペイン語の言語間距離が遠いからじゃないか

ってこと。

言語間距離っていうのは文字通りそのまんまなんですが、ある2つの言語がどのくらい近いかあるいは似通っているかを示すものです。

こちらをご覧ください。

日本語は映像的である 世界の言語の両極的な分布



以前にもブログで取り上げましたが、こちらの書籍に掲載されている図です。

Amazon





楽天ブックス

日本語は映像的である 心理学から見えてくる日本語のしくみ [ 熊谷高幸 ]
日本語は映像的である 心理学から見えてくる日本語のしくみ [ 熊谷高幸 ]


先ほどの図を見ると、日本語は英語ほどじゃないにしてもスペイン語とも共同注視か普遍的かという点において結構距離が離れているのが分かります。

私がスペイン語学習をサボる理由って、これなんじゃないのかなと。

もちろん私の飽きっぽい性格やスペイン語の使用機会がない大阪に住んでいるってことにもよるのですが、日本語とスペイン語の距離が遠いせいで、学んでも学んでも達成感が得られないっていうことが続かない理由の1つになってるんじゃないかと思ったわけです。

逆に考えれば、言語間距離が近い言語を選んで学べば、挫折せずに学習していけるんじゃないでしょうか?

従来は日本語だけで生活できる日本において大学進学したり就職したりなど外的要因がメインであり、学習する目的は日本語である必要がありました。

今後増えていくだろうと思われる、日本文化や日本のサブカルチャーを楽しみたい味わいたいっていう動機の場合も、学習するのは日本語でないとダメですよね。

ところが、今回の私の考えだと、必ずにも「日本語」を目的とする必要はないんですよね。

学習者の母語がたまたま日本語と近かっただけってことになるので。


立場を変えると、私が今後新しく語学学習をするとしたら、こういう視点で学ぶ言語を選びそう。

なぜなら、性格的に良くいえば合理的悪くいえば横着なので、距離が遠い言語よりも近い言語を学べばより少ない労力でより多く達成感が得られるんじゃないかと考えるだろうと思うから。

言い換えれば、コスパよく言語学習ができるんじゃないかってことですかね。


こういう学習動機って、どう思いますか?

語学学習の動機としてあってはならない?

そんな学習者は未来永劫出てこない?

あなたはどう思いますか?


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akky_san at 19:30|PermalinkComments(0)

2021年08月14日

語学学習において最も強固なもの

先週、私の友人(男性、身長180cm超え、大食漢)が「ダイエットすることにしたわ。」と言ってきました。

彼は脂肪燃焼のサプリや体型補正のインナーシャツを購入したり、自分が思いついたタイミングでランダムに筋トレやランニングを行う一方で、替え玉のないラーメン屋では大盛り(2玉)、替え玉のできる店では替え玉2玉を注文するのが常でした。

だから私も「サプリ飲んだりするよりも、本当に痩せたいんだったら食べる量を減らしたほうがいいんじゃない?」って言っていたのですが、「だって食べたいんだもん。」などと言い、食べる量を減らすってことを今までは全くしてませんでした。

そんな彼が「炭水化物食べるの、できるだけ控えるわ。」って言っていたのでビックリして理由を聞くと、

「さすがに仕事中しんどくなってきたから。」とのことでした。

今まで私も含め周りから散々「食べる量を減らしたほうがいい」などと言われても決してそうしなかった彼にとって、このことは大きな変化です。

このことによって、やはり「自分で必要性を感じたことで発生する行動は強いな」ってことを再認識。

そして、このことは何事にも当てはまるんだなってことも。


☆☆☆☆☆☆☆


この行動原理は語学学習にも当てはまります。

先日備前市に帰った時に、知り合いの女性とまあまあ長時間話をする機会がありました。

その方は小学生のお母さんで、息子さんに外国人の教師をつけて英語を習わせているものの、息子さんの取り組みが今ひとつだそう。

彼女に詳しい話を聞いてみたところ、私の予想通り息子さんからの発案ではなく彼女が良かれと思って決めたということ。

つまり、息子さんが自発的に「英語習いたい!」って言ったわけではないってこと。

このような現象は、親に「日本へ留学して日本語を勉強しろ」って言われてきただけの留学生に日本語を教えた経験がある先生には、容易に想像してもらえそう。

本当にモチベーション低いんですよね、そういう留学生。

また、特に学びたいことがあるわけでもなく大学合格が自己目的化してる学生もその傾向があります。

EJUの点数が全て的な。

大学に入学してからレポートをまとめたり、友人とどの授業を履修するか相談したり、教授に論文のまとめ方を質問したり、といった光景が全く想像できてない学生、とも言い換えられます。


冒頭のダイエットを始めた私の友人と、日本に留学しているにもかかわらず日本語のモチベーションが低い留学生と、何が違うか分かりますか?

そうです。

行動の理由が自分の内にあるか外にあるか、つまり行動原理が内的か外的かなんです。

内的な行動原理っていうのは、自分の中のそれをやりたい、あるいはやらなきゃいけないなどと思うことで行動の理由になっているケース。

一方、外的な行動原理っていうのは自分の外側にあって、逆らえない立場の人に命令されたり、目先の損得勘定といったパターンが多いです。

ダイエットを始めた友人は前者であり、英語の教師をつけられた小学生や親に言われて留学している留学生は後者だということになります。

ビミョーなのは大学進学なんですが、学びたいことがはっきりしていてそれには日本語の習得が不可欠だと分かっている学生は前者、先ほど述べた大学進学が自己目的化している学生は後者にあたります。

私は2年半ほど前にこんなエントリ




を書いてますが、従来の学習者の学習動機は大卒って肩書きが欲しい、あるいは日本でバイトをして稼ぎたいっていう外的なものから、今後はただの趣味で日本語を学びたいっていうようにシフトしていくんじゃないかと考えています。

外的要因が減っていく理由は、

・日本の大卒の価値の低下しているから

・アルバイトも含めた日本の賃金が横ばいで、国際的に見て相対的に低下しているから

ですかね。

大学に関しては、例えばこちらの記事。




以前は日本の大学での学びに価値を感じていた中国人留学生でしたが、もうその時代は終わっていて、わざわざ日本の大学に留学する必要は無くなってきてるんですよね。

また、コロナ前の話ですが、海外に行くといかに日本の物価が安いかってことに気づかされます。

物価が安いってことは、賃金も安いことを意味します。

ここ最近物価はほぼ横ばいになっていて、インフレしている国に比べると実質的に物価も賃金も下がっていることに。

なので結果的には、留学という口実で日本に出稼ぎに来ているような留学生も、今後は減って行くと考えられます。

例えばこれらのニュース。










既に私が以前から予想してきた動きが出て来てます。
 
本当に個人的な趣味が、日本語学習動機になりつつあるんです。

そして、個人的な趣味は明らかに内的な行動原理です。

これ、語学学習において非常に強固なものになります。

なぜなら、モチベーション高く学習することになるから。純粋な知的好奇心って、何者にも替えがたいですもんね。好きこそ物の上手なれって言葉って非常に的を射ていると思うんですよね。


今後コロナが収まって日本と海外の行き来が可能になった暁には、おそらくこういう内的学習動機を持つ学習者のほうが外的学習動機の留学生より多くなるんじゃないかと私は考えています。

その時に、私は自分がそういう学習者を満足させられるだけの授業を展開できる教師になっておきたいな、って思います。

あなたはどう思いますか?


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2019年07月19日

生まれて初めて中国語習った!備前市商工会議所の「中国語おもてなし講座」にて

いや〜前々から商工会議所の方にアナウンスされていて「是非参加してほしい」旨のことを言われていた、「中国語おもてなし講座」が伊部のリフレセンターにて行われたので、参加してきました。

全3回の第一回目で、ちょっと後の2回は出られるかどうかビミョーなところ。


参加者は約半数が備前焼関係者で、私は「一般」扱いで参加。


ところで、岡山空港を利用して岡山に来る海外観光客は漢字圏の国の割合が多く、意識高い備前焼関係者がメインに集まったって感じ。


講師は台湾から備前市に来た、地域おこし協力隊でもある女性。

もちろん、専門の中国語教師ではないし、受講者もマジで中国語をマスターするぞ!っていうほどのモチベーションはなく「まあある程度、中国語でやりとりができたらいいや」くらいなので、そこまで踏み込んだ講座でもなく、そのおかげで気軽に参加できました。


☆☆☆☆☆☆☆


席に着く前に、参加者の名前カードとその漢字の中国語読みがカタカナで示され、さらに声調の記載も。

講座が始まり、挨拶のフレーズが紹介され、受講者はコーラス。


さらに講座は進んでいき、

・我是◯◯◯◯(◯の部分には個人の名前が入ります)

というフレーズに差し掛かった時のこと。 


先生が、受講者一人一人を回って発音チャックしていて、私の番に。

私の本名知ってる中国語が分かる人は分かると思うんですが、その名前を中国語で発音してみたところ、先生に「発音キレイですね!中国語勉強されたこと、あります?」って聞かれちゃいました。

私の名前の場合、2文字目と3文字目の漢字の発音が日本人にとって難しいと思うんですが、そこもきちんと発音できてたようです。


で、再び先生が回って来たので、個人的に「おいしい」の中国語の発音を聞いてみました。

というのも、「好吃(カタカナでなんとか表現すると、ハオチー)」 っていうのは知っていたんですが、「チー」という発音をする他の漢字と同じ漢字なのか知りたかったから。

結局、その漢字と「吃」は別物だったのですが、先生が「好吃」の発音をデモンストレーションしてくれ、私が何となくそれをリピートしたところ、「めっちゃ発音キレイ!なんでできるんですか?」って聞かれちゃいました。


私は多分、今まで色々な中国語圏の外国人留学生に日本語を教える上で発音指導もして来たおかげで、彼らがなかなかできない発音がどういうものかを把握していることもあり、「おそらく、この(中国語の)発音は、口の中のこの部分をこうやったら可能なんじゃないか?」と、無意識レベルで推測できてるおかげなんじゃないか、と自己分析しています。


でも、中国語の「認」の発音はまだできるようにはなってないと、自分でも思ってます。


☆☆☆☆☆☆☆


私、英語とフランス語とスペイン語は発音だけは褒められるんですよね。ただ、喋れないだけ。


私はこのエントリ
    ↓



でも書いたように、発音が悪くても伝わればいいとは思ってないので、特に最初の段階で発音を意識して発話しようと思っています。 

この中国語講座でも、それを実践してみたわけです。


他にも、今まで中国語で分からなかったことや、「なんで中国語圏の留学生はこの日本語の理解ができないのか?」って分からなかったことが分かるようになったりして、そういう意味でも非常に有意義な時間でした。


そう考えると、もうちょっと早い段階で中国語の勉強をしていても良かったのかな、とも思っています。


ほな、さいなら!


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akky_san at 22:09|PermalinkComments(0)

2019年01月26日

語学学習において、言葉の一般的な使用頻度の価値が低下し、言葉のプライオリティ選択は教師から学習者へ

私は、学校にいるときも日本語教師勉強会でも、教師側の「その言葉は、あまり使いません。」ってコメントが最近よく気になるようになってきました。

その理由は以下の2つ。

  1. その発言をする教師が、どこまでのシチュエーションを想定してるか分からないから
  2. そもそも、学習者が使う言葉を教師が決めていいものなのか分からないから

です。 


☆☆☆☆☆☆☆


まずは1のほうから。

その言葉をよく使うかあまり使わないかに関する上記のような教師の言葉を見聞きして気になり始めた当初は、1の理由がメインでした。

そういうことを言う教師の説明をよくよく聞いていると、「よく使う」と言っている文系の使用場面が話し手と聞き手の心理的距離が近い、例えば友達関係で行われている会話、ってことが多いんですよね。

いやいや、人間関係ってそれだけじゃないし、口頭での音声情報であったとしても、ニュースでアナウンサーからアウトプットされる言葉もあるし、パネルディスカッションで使われる言葉も友達との会話で使われる言葉とは異なります。

さらに言えば、音声情報だけでなく表記という形式で表現されることも多いです。

例えば、それが新聞(事件の記事、社説、コラムなど細分化できるし)だったり小説(これもジャンルが色々)だったりするし、テレビ番組のテロップや外国映画の字幕というパターンもあります。


にもかかわらず、私が知っている一部の日本語教師は、文型を①使用語彙/理解語彙や、②話し言葉/書き言葉、などといった単純化された二極化を行ったりします。


最近特に感じるのですが、私が接する日本語教師以外の日本人でも、「Aでなければ、必ずB」って思考の人が多いな、と。

彼らの住む世界には、CやDが存在しないんでしょうね。


話を戻すと、上記のような発言をする日本語教師は、「よく使う」シチュエーションがかなり限定的なんです。


私は意識的にってことではないんですけど、日本語教師としてのキャリアをスタートさせた時から、わりと色んな場面を想定し、ピンポイントで「こういう時に、この文型をこんな風に使えるよ!」という感じで学生には提示してました。


なので、私は昔の日本語能力検定試験の旧1級文型を教えていた時も、もし学生が、

  • 1級の文型は、日本人も使いません。
  • バイト先の日本人が(旧1級文型を見て)「日本人でもこういう日本語はほとんど使わない」って言ってました。

などと言ってきても、簡単に同意なんてしませんでした。

例えば、「〜にたえない」は、私は話し言葉だと思ってます。


次に2について。

私は今、スペイン語のプライベートレッスンを受けていて、そのレッスンは完全にオーダーメイドです。

どういうことかというと、私の方から「レッスンでは、こういうことをこんなふうに習いたい」っていうことを先生に伝え、先生がそのようにレッスンの内容や流れを、私のリクエストに沿って構築してくれてるレッスンになってる、ということなんですよね。

なので必然的に、私が受けてるような内容のレッスンを、他者が受講しても全然意味が無いんです。

よっぽど趣味・嗜好が同じ人なら、話は別ですが。

先日先生にお願いしたのは、「私は美味しいものを食べたり美味しいお酒を飲んだりするのが好きだから、冒頭の語彙テストにそういうジャンルの語彙を入れて欲しい」というもの。

そしてこれは何を意味するかというと、オーダーメイドレッスンでは使用頻度が高い一般的な言葉よりも、私にとってプライオリティが高いジャンルの言葉が優先される、ってこと。

つまり私にとってより重要な語彙は、机や車、あるいはカバンなどの一般的に使用頻度が高いとされる(実際にスペイン語でこれらの使用頻度が高いかどうかはわかりませんが、とりあえず初級で出てきそうな)言葉よりも、タラや白ワイン、あるいは鉄板焼きなどの言葉なんです。

今、そういう自分が好きなジャンルの言葉のほうが、一般的な言葉より覚えるの早いんじゃないかな?って思ってます。


従来は、語学教師がその言葉の頻度の高さ、言い換えると実用的な言葉かどうかを判断して言葉のプライオリティを決めてきました。

ところが、オーダーメイドレッスンではその言葉の実用性よりも、学習者は覚えたい/使いたい言葉を選び、習った時点での言葉の実用性がどうであれ、それを実用的なものに主体的に変える、というふうになっていきます。

具体的に書くと、私が次に行きたいと思っているスペインの都市は「サン・セバスチャン」という街で、ここは世界一の美食の街と言われています。

いつ行くかは未定ですが、とにかく食い尽くしたい!


スペイン旅行をする時にどこまでスペイン語を習っているか全然分かりませんが、習った言葉が実用的になっているかは私次第である、とも言えます。


何回もこのブログに書いていますが、私は将来的に語学学習は趣味の時代になっていき、そうなるとクラス単位の一斉授業ではなく、個人単位のオーダーメイドレッスンになっていくと考えています。


で、そうなると語学学習の今までのパラダイムをは終わりを告げ、新しい流れが生まれていくんじゃ無いかと考えていて、今日はその語彙/言葉について私の予測を書いてみました。


あなたは、語学学習が将来はどうなると考えていますか?


ほな、さいなら!


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akky_san at 22:23|PermalinkComments(0)