表現

2019年03月19日

Shakiraさんのスペイン語の歌を聴いてて気づいたことと、言葉遊び

現在も、スペイン語の学習継続中のakkyです。


ちょっと前までは、スペイン語アプリの日本語の文を聴いて、その直後に同じ意味のスペイン語の文の2回のリピートを聴くって学習方法をしてました。

ただその学習方法だと、出て来る語彙が限られて来るので、語彙を増やすために色々なスペイン語が出て来る「歌」を聴くって方法に切り替えました。

当初は、私にとって馴染みがある相当昔のアルバムを聴いていたんですが、今日2017年の「EL DORADO」 ってアルバムを聴き始め、冒頭の「Me Enamore(最後のeにはアクセント記号が付きます)」を聴き始めた時のこと、あることに気づきました。

その歌詞の部分を、引用してみます。(すみません。アクセント記号の入力の仕方が分からないので、本来アクセント記号が必要なものがあります)

De quien me andaba quejando
No se que astaba pensando
Voy pa' el cielo y voy patesando 

もうおわかりですよね?

韻を踏んでるんです。

で、私が気づいたことが何かというと、

スペイン語は韻を踏みやすい言語である

ってこと。


この歌の他の部分を見ても、「bonita」、「recondita」、「barbita」 で押韻してます。


私はスペイン語学習に関してはまだまだ初級レベルなので、韻を踏みやすい理由ははっきりとは分かりませんし、他の言語よりその傾向が強いのかどうかも分かりませんが、もしかしたら「性数一致に厳密な言語である」ってことが影響してるんじゃないかな、と考えています。


☆☆☆☆☆☆☆


これで思ったのは、韻を踏むすなわち押韻って文学的技巧なので、意思の疎通のためとか必要だから行うことではありません。

むしろこういうのって一種の言葉遊びで、表現に変化やリズムをつけたいとか、読む(私の場合は「聴く」ですが)人に可笑しみを感じて欲しいとかっていう、実用性とは対極のものです。


そしてこのような押韻はヨーロッパだけでなく、私たちが高校生の時に習った中国の「絶句」や「律詩」にもその特徴を見ることができます。


これは、私が最近ずっと書いている「語学学習において重視されていく教養の重要性」(→最近の日本語教育の教材は「実用性」に傾いて「教養」が置き去りだけど、多分将来その価値は逆転します)とも関係性が深いです。

なぜかというと、韻を踏もうと思うと、意思が伝わるだけの必要最小限の語彙しか知らないとそれは難しく、やはり1つの意思伝達でもバラエティに富んだ表現や語彙を知っていないとできないからです。


☆☆☆☆☆☆☆


私は個人的に、「万葉集」、「古今和歌集」、「新古今和歌集」の中だと「古今和歌集」が好きなんですが、文学的な評価は低く、それを残念に思ってます。

おそらく評価が低いのは、「技巧に走りすぎている」からじゃないかと思っていますが、そういう言葉遊びに熱中できるって素晴らしいと思うんです。

文学以外にも、クラシック音楽の「パガニーニの超絶技巧」とか普通に呆気にとられるくらいすごいですもん。

ここまですごいと、「技巧 = 小手先」とは全く感じないレベル。


韻を踏むっていう技巧を用いるなんて、意思疎通をしたいだけの人には想像もできないことなんじゃないかと。


ほな、さいなら!


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akky_san at 20:21|PermalinkComments(0)