日本語学校

2021年09月23日

本来とはアベコベの需要と供給

今日、Twitterでこういう発信をしました。

ニュース リツイート

このエントリを読んでる方、このニュースをどう思いますか? 

私は3つのことを考えました。

1つ目は、今までにも日本に出稼ぎとも言えるアルバイト目的で留学する外国人はいたけどあくまで建前上は「日本語教育を行う」ことになっていたのに、もうその建前もかなぐり捨てて「労働力確保のために日本語学校を設立した」って言っちゃうほど人手不足で切羽詰まってる地方があるんだなってこと。

まあ日本全体で高齢化と人口減少が同時進行してますからね。特に地方は。


2つ目は、2拠点生活をしていて理解したことなんですが、地方では本当にICT化や省人化が進んでないんだな、ってこと。

基本アナログ生活なので、多くのことをヒトが担ってます。

多くの地方で、例えばスーパーではヒトがレジを打ちヒトが現金を手渡して決済したり、ヒトがわざわざ銀行に行って現金を渡しヒトに振り込みを依頼します。

振り込みなんてネットバンクを使えば、家に居ながらにして24時間可能だし、何回かまでは振り込み手数料が無料であるにもかかわらず、です。

同じようなことが工場などにも当てはまりそう。

私は工場で働いたことがないので詳しい内部事情は分かりませんが、生産現場でも機械化しようと思えばすぐにできる余地は十分あるのではないかと考えます。

まあ経済的に余裕がなく、その設備投資ができないって事情もあるとは思いますが・・・

因みにそしてこのことは地方だけでなく、都市部でも起きています。

コロナの第5波で保健所が逼迫した理由の1つとして、ICT化されてなかったことが挙げられます。

保健所と潜在的な患者さんって、電話で連絡を取り合ってたんですよね。

で、その患者さんが自宅療養中に保健所から電話をしても折り返しがなかったから連絡を打ち切ったんだけど、その方は実は自宅で亡くなってたって報道が一時期多くありました。

おそらく患者さんの情報も紙ベースだったのでは?

日本のICT化の遅れは、もはや後進国レベルと言わざるを得ません。


そして、3つ目。

それは、

需要と供給がアベコベだよね

ってこと。

目的と手段が逆だ、とも言えます。

本来日本語学校を作るのは、そのエリアに留学したいって外国人側の需要があって、日本語学校の設立っていう供給がなされるべきもの。

で、アルバイトをする留学生が多ければ、結果的にそのエリアの労働力が確保されるって順番です。

ところが、この日本語学校の場合、人材確保のために日本語学校を作るという供給がまずあり、その後需要サイドの外国人の留学希望者を募るって順番になっちゃってます。

そんなことある?

まあこの学校は極端なケースですが、このアベコベの需要と供給って日本語教育業界では横行していると私は考えます。

例えば、特定の教授法やアプローチ、教科書などを信奉しすぎてそれ以外のものは一切認めないという教師。

例えば、学習動機をコミュニケーションと思い込んでる日本語教師など見受けられますが、少なくとも私の場合、スペイン語学習はコミュニケーション目的ではありません。

私は、スペイン語の学習を通してスペインの歴史や文化が学びたいだけです。

だって、大阪に住んでたらスペイン語でコミュニケーションをとる機会はほぼないですもん。

それと最近よく見聞きするのですが、好きなアニメを日本語で視聴して理解したい学習者も増えているとか。

こういう人にとっては、コミュニケーション能力の向上は優先順位が低いです。

あと、ずっとこのブログにも書いてきたことですが、「この日本語は普段使いません」って簡単に言っちゃう先生も需要と供給を履き違えてます。

そんなことは教師が決めることではありません。

学習者が知りたがっている(需要)なら教師サイドは説明して(供給)、普段使うかどうかは学習者本人が判断すればいい。

あくまで、需要 → 供給 って順番であるべきだと私は考えます。

それと、学習者が高いレベルの授業を望んでいるのに、教授力は低いけど安く働いてくれる教師や逆らわず言うことを聞いてくれる教師ばかり採用する学校なんかも同様です。

本当に供給側の都合だけで、需要は華麗にスルーされてます。


☆☆☆☆☆☆☆


ただ、私はこの現象は日本語教育に限ったことではなく、日本全体(例外もありますが)の問題かな、とも思います。

例えば、先日のトヨタの社長の発言。




これも切なくなるというかなんというか。

このケースも、内燃機関を残して雇用を守るために水素エンジンを選ぶっていう供給側の論理であり、需要サイドである消費者のニーズは置き去りにされてます。

でも、世界的には水素じゃなくて電気でしょ。

おそらく世界の消費者は、ステーション建設に莫大なコストがかかる水素自動車より、充電する設備を作るコストが圧倒的に安い電気自動車を選ぶのでは?


ここまで書いてきたように、本来とはアベコベに需要と供給を考えた結果判断を誤ると、その事業、組織、業界の未来は暗くなります。

私は一個人としてそうならないよう、あくまで学習者ファーストの教師であり続けたいなって思います。


ほな、さいなら!


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akky_san at 19:30|PermalinkComments(0)

2021年08月17日

日本語教師に意見があっても学校に対して言わない理由

これを読んでる日本語教師の方、日本語学校に限らず働いている日本語教育機関に対して、特に改善策の提案や意見の表明ってされてますか? 

意外と、

意見はあるけどそれを学校には言っていない

って人が多いのではないでしょうか?

今回はどうしてそうなるのか、理由を2つ書いてみたいと思います。

1つ目は、

心理的安全性が担保されていない

から。

この「心理的安全性」って言葉、最近よく見聞きしませんか?

詳しくはこちらの記事を読んでいただければと思うんですが、




この記事の中で、心理的安全性とは
チームにおいて、他のメンバーが自分が発言することを恥じたり、拒絶したり、罰を与えるようなことをしないしないという確信を持っている状態であり、チームは対人リスクをとるのに安全な場所であるとの信念がメンバー間で共有された状態

と定義されています。

私なりのザックリ解釈によれば、

上司や同僚の顔色を伺ったり無用な忖度を行ったりすることなく、忌憚なく闊達に意見表明ができる状態

ってことになります。

これ、どうですかね?あなたの職場で可能ですか?

昨日のエントリ




に書いたような教師がいる段階で、心理的安全性は望むべくもなくなります。

まあそこまででなくても、日本人は忌憚なく意見交換をするよりも、摩擦回避的なコミュニケーションをするきらいがあるので、日本語教育の現場に限らず日本人ばかりの日本の職場では似た雰囲気なのかなとも考えられますが。

どうなんでしょ?どう考えても改善案などを言える雰囲気が微塵もないって学校って、結構あったりするんでしょうか?

因みに、上の立場の人に全く悪意も悪気もないんだけど、その人があまりに繊細すぎる場合も自由に意見を言うのが難しくなります。


実は、上の立場の人が高圧的だったり被害妄想的だったりって理由で、意見表明をする余地もない学校は意外と少数派で、次の理由で教師が何も言わないケースのほうが多そう。


2つ目の理由は、

学習性無気力が蔓延している

から。

この言葉、聞いたことありますか?

学習性無気力というのは、人間はストレスや不快感を感じるとそれを回避しようと努力するものだけど、 努力しても回避できない状況が長く続くと、「何をやっても無駄」と考えるようになり、自発的な行動をしなくなる、ってこと。

何をしたり何を言ったりしても無駄だってことを、ある一定期間で学習してしまった結果、無気力なるってことですかね。

私が以前いた職場では、学期の終わりごとに勤務希望とともにアンケートが行われ、カリキュラムや教材、活動などに関するアンケートが行われていました。

私がその学校に入ったばかりの時は、学校側も真摯に対応してくれていて、今後の改善方針を表明してくれたり、どうしてもできない場合はその理由を説明してくれたりしてました。

ところが、いつの頃からか私たちの提案や要望が放置/スルーされるように。

形だけのアンケートになったわけです。

その結果、ベテラン教師たちも次第に何も書かなくなっちゃいました。

(私は個人的には専任っていう学校側の立場だったとしても、ベテラン教師の意見は読みたいですけどね)

また、このアンケートとは別に学期の終わりに基本的に教師全員が集まる反省会なようなものも催されていて、当初は教師も闊達にかなり鋭い意見も表明していましたが、途中からはそういう学校側にすれば耳の痛い意見表明を封殺するためか、教師に事前に配布しておいた冊子を読み上げるだけの会に・・・

本当に無駄な時間で、私には超苦痛でした。だって、読んだら分かることを延々と話されるんですもん。

ここまでされると、もうどなたもあまり意見を言わなくなっちゃうんですよね。


ここまであからさまでなくでも、「教材ありきの学校」もこういう状況に陥りがち。

その時の教材を使用することから様々な問題が発生していたとしても、あくまでその学校はその教材を使うことに意義があると考え、他のものを使うなんて選択肢はハナから無いんですよね。

まあ確かに、メイン教材を他のものに替えるのって労力が半端ないし、それまで作ったその教材周りの練習問題やテストなどが膨大なサンクコストになるため、なかなか一筋縄ではいかないって事情がありますからね。

なので逆に考えれば、教材が替えられないことで学習性無気力の状態になってる学校は結構多いのかなと。


あとは、校長や学科長などがあまりにも畑違いの場合も、こういう状況になりやすいです。

組織の大人の事情で、「ずっと営業一筋でやってきました」みたいな人がスライドして校長におさまるといったパターン。

それでも日本語教育について学ぶ姿勢があればいいんですけど、そういう人は往々にしてあくまで今までの自分の世界のルールを貫く人だったりします。

そうなると、そういう人には「何を言っても理解してもらえない(通じない)状況」になり、教師は学習性無気力になっちゃう。


☆☆☆☆☆☆☆


こう書いてくると、心理的安全性が保証されつつ学習性無気力にならない学校ってだけで、かなりホワイトな日本語学校ってことになるのかなと。

それと、校長や教務主任の方に注意していただきたいのは、教師サイドから要望や意見が出ない状況の場合、その理由ですね。

すべてに満足してるからとか、特に意見がないからってこともあるかもしれませんが、それはかなりのレアケースだと思った方がいい。

意見があっても学校に対して言わない(言えない)可能性の方がずっと高く、もしそうだとしたら何がそうさせているのかまで考えた方がいいのかもしれません。


最後に、学習性無気力に関しては、学生バージョンについても書くかもしれません。


ほな、さいなら!

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akky_san at 19:22|PermalinkComments(0)

2021年05月12日

日本語学校の教務主任になってほしい歴史上の人物はこの人を置いて他にない

最初に「教務主任」って表現をしてますが、この肩書き限定というよりは、

採用や人事の権限を持っていて、現場でそれを行使する立場の人

を指します。

学校によって違ったりしますからね。


で、日本の歴史上の人物の中で、私が最も教務主任として推したいのがこちらの本を著した人。

現代語訳 論語と算盤 渋沢栄一 守屋淳 訳



もうお分かりですよね?

今話題の

渋沢栄一

です。

現在放送されている大河ドラマ「青天を衝け」の主人公です。

私は、名前は知っていた程度で特に渋沢栄一に興味もなかったのですが、仮に学生に「渋沢さんってどういう思いで何をした人ですか?」って聞かれて全然答えられないのも恥ずかしいなって思って、「論語と算盤」を読んでみたわけです。

渋沢栄一って何をした人かご存知ですか?

私が読んだ「現代語訳 論語と算盤」のはじめにによると、

(現在の)JR、日経新聞、サッポロビール、みずほ銀行、帝国ホテル、明治神宮、聖路加病院

などの設立に関わった人です。

もうちょっと書くと、彼の人生は、

1 尊王攘夷の志士として活躍した時期
2 一橋家の家来となった時期
3 幕臣としてフランスに渡った時期
4 明治政府の官僚となった時期
5 実業人となった時期 

といったステージに分かれているとのこと。

大河ドラマでは、今は2くらいですかね?

先ほど挙げた企業に関わったのは、5ですね。


で、私がこの「論語と算盤」の中で最も感銘を受けたのがこちら。

わたし渋沢は、渋沢の心をもって、自分と一緒にやっていく人物に相対するのである。その人を道具にして自家の勢力を築こうとか、どうだとかいう私心は毛頭持ち合わせていない。ただ、わたしの素直な気持ちとして、適材を適所に得たいと考えているのである。

素晴らしくないですか?


ここで日本語学校を振り返って、いわゆる人事権を持ち講師を配置する教務主任の振る舞いを考えてみます。

少なくとも私が見聞きして来た教務主任の行いは、渋沢さんの真逆でした。

私心だらけ。めっちゃ恣意的です。

個人的な好き嫌いで配置を決定したり、耳が痛い指摘をする口うるさいベテラン教師に対して担当コマ数を操作したりするっていう例をたくさん見聞きして来ました。

全く学習者の利益を考えず、自分の感情を優先する的な。

人事権を掌握するっていうのは組織を牛耳るってことになるので、こういう人がいる日本語学校ではなかなか安心して働きづらいです。

もちろん、中長期的なスパンで全体を俯瞰して組織運営にあたる教務主任もいるとは思いますが、私は今まであまりそういう人の話は聞いたことないです。


従来の学校の「教務主任が全ての人事の決定権を持っている」っていう仕組みをどうにか変えられられないものですかね?

私が今一つ考えているのは、特定の人物が権力を持ち続けると組織が腐敗するので、権限を任期付にするっていうこと。

これどうですかね?

どうやって仕組み化するのかについては、まだ考え中ですが。


それから、適材適所に関しては、講師の向き不向きを見抜く眼力というか洞察力も、教務主任には持っていてほしいところ。

私心で人事を操るのはその人の意志の問題ですが、こちらはスキル。

なので、自分にとっての都合で講師配置を行う主任には培われないものであり、学習者のニーズに敏感で学校全体にとってのメリットを考えられる主任にしか得られないスキルなのかなと。


渋沢栄一みたいな人が教務主任の学校があったら、私も働きたいです。


論語と算盤を読みたい方はこちら。


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現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)
渋沢栄一
筑摩書房
2014-01-10




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akky_san at 20:41|PermalinkComments(0)

2021年04月30日

その方法で質の確保はできてますか?教師採用の際の紹介の怖さ

コロナ前は留学生が増え続けていて、あまり計画的ではない運営をされてた日本語学校では学生の増加に教師の採用が追いつかず、紹介のみで採用するなんてこともあったようです。

でも、これ相当リスクが高いです。

後述しますが、その採用がうまくいかなかった場合、リスクだけでなくコストも相当高くつきます。


こんな話を聞いたことがあります。

その学校では数年前から学生が増え続けており、採用試験を行う時間的・人的資源的余裕はありませんでした。

そこで、在籍している非常勤の先生にお願いして何人か紹介のみで採用を決定。

ところが、この判断が仇となったんです。

紹介のみで採用された日本語教師のお一人が、(私が書くのもなんですが)準備もあまりしないどころか、日割りのカリキュラムを遂行できず(積み残しのレベルじゃなくて)別の日の授業を行ってしまうなど、授業運営が破綻してたということです。

超問題ありの先生だったってこと。

しかし、だからと言って採用した以上簡単に解雇できませんよね?

なのでその先生の授業のクオリティを上げようと、入れ替わり立ち替わり専任講師がその先生の授業に入ってオブザーブし、何回もフィードバックがなされました。

しかも、その先生は自分の授業の問題点をお認めにならないので、1回のフィードバックにかなり時間が費やされたようです。押し問答的な。

これが冒頭に書いたコストです。

そういう先生にももちろん給料は支払われるので金銭的なコストと、膨大な時間のコスト。

その先生へのフィードバックの時間があったら、他の有意義なことに時間を割けたのでは?


この状況って、関わる人誰もが不幸じゃないですか?

学生も嬉しくないし、先生ご本人もそうだろうし、専任サイドもね〜


というふうに書いてきたakkyですが、2つ目の学校に採用されたのは紹介でした。

が、先ほど挙げた先生と決定的に異なる点は、

私を紹介した先生は私の授業を何度も見ている

っていう点。
 
その先生は私の初めて勤めた学校の専任講師で、採用試験の模擬授業や私が初めて受け持ったクラスの授業、それ以降も何度も私の授業を見てるんですよね。

なので、今更私が採用試験で模擬授業をしなくても私の教授力はよくご存知だった、って事情があります。


私は紹介自体は悪いことではないと考えていますが、紹介のみだとかなりリスクが高くなり、状況によってはコストもかさむことになるんじゃないかなと。


あなたの学校の採用システムはどうなってますか?


ほな、さいなら!


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akky_san at 20:35|PermalinkComments(0)

2021年04月23日

語学習得のためだけに海外留学をする意義

従来は、ある特定の言語を習得しようとした場合、その言語が話されている国や地域に留学するのが最もコストパフォーマンスの良い方法でした。

特に日本のように基本周りが日本人だらけって環境で、例えば英会話のレッスンを週1日受けてもなかなか英語の習得には至らないっていうのは容易に想像できますよね?

でも、現地に行ってその言語のシャワーを浴びることによって習得が促されます。

だからこそ、今まで留学する人が多かったわけです。


ところが、最近はそうとも言えなくなってきてます。

こちらの記事。



因みに、この記事はGoogle検索ではたどり着かなかったので、Yahoo!検索で到達しました。 

この記事を読む限り、私がMOOCについてエントリで触れた頃



よりかなり進化してるんだって印象を受けました。 

何よりもコース数が3000以上もあるので 、学習者のニーズとマッチしやすそう。

また、英語の字幕付きの動画を視聴してバーチャルトリップもできるとか。

至れり尽くせりですね。

既にこういうことがテクノロジーの進歩によって可能になってきてるんですね。

まあこれで完全に語学習得が可能になるのかどうかは別にしても、かなり環境が整い、それが容易になりつつあるってことでしょうね。


このことを踏まえた上で従来の日本語学校を振り返ってみます。


留学期間は人によって異なったりしますが、最長2年。

で、これも学校によって違いますが、1日4時間前後で週5日。

私が今まで勤めていた学校はどこも大学(大学院)進学希望者が多かったため、1年半か2年日本語を学んで大学に進学するレベルに。

なので長期休暇を考慮に入れると、1年半だと1260時間、2年だと1680時間。

ただ最近の日本語学校では、2年かけても中級か中上級止まりで、私の定義の中の上級レベルに実質的には到達せずに卒業する人も多いのでは?

ここまでは時間的なコスト。

金銭的なコストに関しては、まず日本語学校の学費が月70万前後。

また教科書代を半期で5000円程度、生活費を月12万程度と仮定すると、これだけで年間215万円。 なので2年で430万円。

進学希望の留学生の場合、これらとは別に進学先の大学の入学金や授業料なども払わなければならず、私立文系だとそれらの合計が100万円前後が多いので、2年で530万円支払う必要があります。

ここまでは大学進学を前提に書いてきましたが、先ほども書いたように実際は中上級までしか行けない留学生も多いことを考慮して考えると、コストパフォーマンスどうでしょう?

コスパ悪すぎません?


今後コロナがどうなるかは、まだ全然分かりません。

報道によると、インドでまた新たな変異株が発生した可能性があるって情報も。

私が住んでいる大阪も、いっとき順調に感染者が減っていっているかのように思えた時期もありましたが、この有様です。

なので、少なくとも希望的観測はしないほうがよさそう。


そして仮にコロナが終息したとしても、従来の「語学習得のためだけに行われていた海外留学」が、今後はその意義を問われることに。

本当にわざわざ現地に留学する必要があるのかどうか、って観点で。

逆に考えると、「それでもわざわざ外国人留学生が日本で日本語を学びたい」っていうインセンティブが働くような付加価値が生み出せる日本語学校は、生き残っていけるのかなとも考えています。

まあこのことは、戦略のない日本語学校は淘汰される可能性が高いってことでもあるんですけどね。


ほな、さいなら!


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akky_san at 19:56|PermalinkComments(0)