2026年08月16日
【日本語教師】「降らなかったです」は○?初級で「日本人も使うから」が危険な理由
初級の学習者が
「昨日は雨が降らなかったです。」
というアウトプットをしてきたら◯にしますか?✖️にしますか?
おそらく私が以前いた学校では、ほとんどの先生が「日本人も使うから」という理由で◯にしそう。
結論から書くと、私だったら✖️ にします。
確かにこういう日本語って、日本人も言ったりしますよね?
でも、ポイントは初級の学習者ってところ。
私の初級を教える時の優先順位としては、規範(Standard): 誰もが正解と認める、標準的でフォーマルな日本語を定着させることが重要だと考えているから。
冒頭の文を◯にしてしまうと、以下のような3つの困ったことが起こり得ます。
1 丁寧体の動詞の過去の否定の規範である「〜ませんでした」が定着しない
2 「降らなかったです」を◯にしたら、論理的に考えると当然「降ったです」も◯にしないといけなくなる
3 そのせいで、本来い形容詞の変化である「昨日食べたラーメンはおいしくなかったです。」と動詞の変化がゴチャゴチャになって学習者が混乱する
いかがでしょうか?
これに加えて、冒頭の文を◯にする先生も、おそらく導入時には「降る」の過去の否定は「降りませんでした」であると提示すると思います。
逆に言えば、「降らなかったです」とは導入しないってこと。
これって矛盾してませんか?
導入時に提示しないということは、それが「その段階で身につけるべき目標言語知識」ではないと指導者自身も分かっているはずです。それにもかかわらずアウトプットで許容してしまうと、学習者は「先生が教えた形」と「マルをもらった形」のどちらを自分の基準(インターランゲージ)として定着させればよいのか混乱します。
ここで大事なのは丁寧体だったら「降ります」の過去の否定は「降りませんでした」、普通体の「降る」の過去の否定は「降らなかった」であり、これを混同しないこと!
「〜なかったです」を許容する側は、「意味が通じる」「日常会話でよく聞く」という点に目を向けがちです。しかし、許容された学習者は「じゃあ『〜たです』もいいんだ」という誤った推測(過剰適用)を行い、自力で正しく文を作る再現性を失ってしまいます。
初級学習者にとって文法は、言葉を組み立てるための「骨格(フレームワーク)」です。 「動詞の丁寧形過去否定=〜ませんでした」という明確なルールを与えることで、学習者は迷わずに文を作ることができます。ここに「〜なかったです」という例外やバリエーションを early stage で持ち込むと、ルール自体が曖昧になり、定着が著しく遅れます。
もし動詞で「〜なかったです」を認めると、学習者の頭の中で「動詞と形容詞の活用ルールの境界線」が崩壊します。その結果、「降ったです」「食べただ」といった壊れた文法が量産される原因になります。
日本人が使う表現だからといって、初級段階で何もかも許容することは無用な混乱をきたすため、適切な指導法だとは私には思えません。
語学教育における「自然な慣用(ネイティブが言うから)」と「段階的な体系指導(ペダゴジー)」は明確に区別されるべきです。
あくまでも初級で教えるべきは圧倒的に「規範」です。
規範という頑丈な土台があって初めて、中上級になってから「実は話し言葉ではこういう言い方もあります」というバリエーション(許容)を受け入れる余地が生まれます。
なので、私なら初級ではあくまでも規範を叩き込んで、初級以上のレベルで学習者が「降らなかったです」などの日本語に出合った時に初めて「そういう言い方もあります」と指導します。
今書きながら思ったのは、私がこのように考えるのはバックキャスティング思考(ゴール設定をまずして逆算して考える方法)だからなのかなってこと。
言葉の「生きた使われ方」に目を向けるフォアキャスティング的な視点も一理ありますが、初級段階の文法構築においては、「将来的な破綻を防ぐためのバックキャスティング思考」こそが、学習者に迷いを与えない確かな指導につながると言えるのではないでしょうか?
ほな、さいなら!
2026年08月14日
「雨が降った。したがって、散歩に行かない」の違和感、説明できますか?——日本語教師の語感と読書量
2 今日は気温も高くて湿度も低かったので、洗濯物が干上がった。
ほとんどの人がどちらの文にも違和感を感じるだろうと思います。
1に関しては、文法的には間違っていないし、2についても辞書を引くと、確かに「乾いて水気がなくなる」と書いてあります。
では、なぜダメなのでしょうか?
端的に書くと、1は論理的な文ではないから。2はコロケーションに問題があるから。
順番に詳しく説明していきます。
「したがって」の根本にあるのは、単なる文脈の硬さだけでなく、「確実性の高い論理的帰結(Aだから、当然Bという結論になる)」という強い論理の因果関係です。
日本語の使用には、文脈のトーン(文体・場面)と語彙の位相(フォーマル度)はもちろんですが、ものによってはそれだけでなく論理的であるかどうかも関係してきます。
1 「したがって」がおかしい理由
1 「したがって」が要求する論理の強度
- 自然な例(論理的な帰結)
- 自然な例(前提に基づく規範や方針)
2 なぜ「雨だから散歩に行かない」に合わないのか
一方、「雨が降っているから散歩に行かない」というのは、論理的帰結というよりも個人の主観的な判断や好みに過ぎません。
「雨が降っていても、長靴を履いて散歩に行く人」もいる。
- 「雨が好きで散歩に出かける人」もいる。
つまり、前提(雨)から結論(散歩に行かない)への移行に絶対的な必然性(論理)がないため、ここに強固な論理を示す「したがって」を持ち込むと、言葉の持つ論理の重さと内容の個人的な軽さがミスマッチを起こし、強い違和感が生まれてしまうわけです。
2 「干上がる」がおかしい理由
1 「辞書的な意味の組み合わせ」と「実際のコロケーション(語の自然な繋がり)」のズレ
「干上がる」が使われるのは次のような文脈は、
- 池や川の水が涸(か)れて底が見える
- 田んぼが照りつけて亀裂が入る
- (比喩的に)収入が絶えて大いに困る
といった「水気が完全に失われて、からからに枯渇・困窮する」という、極めてネガティブあるいは極端な状態を指します。
もっと書くと、そこにあるべき水がなくなって、困るというのが元々の意味。
一方、普段着る服やタオルが太陽と風で気持ちよく乾くプロセスは、単純に「(洗濯物が)乾く」であり、カラッと気持ちよく乾いた状態なら「(カラッと)乾ききる」などと言いますよね。
☆☆☆☆☆☆☆
実はこの2つの文は、日本語教師が提示した文なんです。
では、どうしてこんなことが起きるのでしょうか?
これも結論を書くと、本をあまり読んでないから。
今から、読書量が足りないことのデメリットを挙げていきます。
1 言葉を「記号(A=B)」として捉えてしまう
読書量が十分でないと、「したがって = だから /それで/そこで/ So / Therefore」という一対一の置換で満足してしまいがちです。その言葉が背負っている論理の精度や必然性の度合いまで意識が及びません。
それぞれ使う場面や文脈が違うにも関わらず、単純な理解をしてしまいがちになります。
「したがって」に関して書くと、単に「『したがって』=『だから』の硬い表現」と表面的に教えるのではなく、「客観的・論理的に『当然そうなる』と言いたいときに使うんだよ」という本質(論理の伴い方)を提示できるんですか、って感じですかね。
2 「コロケーションの違和感」に気づけない
「言葉の繋がり(コロケーション)」は、文法規則のように「なぜダメなのか」を論理だけで説明しにくい部分があります。
「干上がる」に関連して書くと、読書経験が豊富な人は、膨大なテキストを通過する中で「どの動詞が、どの名詞と仲が良いか」という組み合わせのデータベースが自動構築されています。そのため、「洗濯物が干上がる」と口にした瞬間に、脳内で「あ、この組み合わせは気持ち悪い」と強力なアラートが鳴ります。
もし教師自身がこの違和感に気づいていないと、学習者から「先生、『乾く』と『干上がる』はどう違いますか?」と聞かれたときに、
「同じですよ。『干上がる』の方がもっと乾いたということです」
といった誤ったニュアンスを教えてしまう危険性すらあります。
言葉の「意味」だけを記号として覚えている人と、読書を通じて「その言葉が使われている情景や空気感」まで含めて身体化している人——その差が、こうした日常語のちょっとしたチョイス(コロケーション)に如実に表れてしまいます。
3 読解の授業がしんどくなる
読解の授業は、準備の段階から授業中のファシリテーション、そして学習者とのやり取りに至るまで、教師側の「言語の引き出し」と「思考の体力」が最も削られる時間と言っても過言ではありません。
単に文法や単語を解説するだけであれば「知識の提示」で済みますが、読解授業となると教師にはまったく別の重圧がかかってきます。
どうしてしんどくなるのでしょうか?
1 文法的に合っているのに読めない」壁に付き合う必要がある
学習者は「文法のルールも単語の意味も分かるのに、全体として何が言いたいのか分からない」という状態に陥ります。
「筆者の真意はどこにあるのか」
「なぜここでこの接続詞(『したがって』など)が使われているのか」
「この比喩が暗示しているものは何か」
こうした「行間(文脈の空気感)」を解きほぐして理解させる作業は、教師自身に相当な語感と文脈の解像度がないと解説しきれず、非常に骨が折れます。
こういうスキルは、普段本を読んでいない人にはなかなか説明できない部分ではないでしょうか?
2 「生教材(ナマモノ)」を扱う恐怖と労力
中上級の読解では、新聞記事、コラム、エッセイなどの「生の文章」を教材にすることが増えます。
- 教科書のように「決められた正解」が用意されていないことが多い。
- 著者の癖、独特の比喩、時代背景、文化的な文脈(「儚さ」などの感覚)が絡み合う。
教師自身が事前に「文の骨組み」と「論理の穴・飛躍」を完全に解剖しておかなければならないため、教材研究の負荷が跳ね上がる。
3 学習者からの「想定外のツッコミ」に対応しなければならない
読本を100%鵜呑みにせず、鋭い視点を持つ学習者ほど、本質的な疑問(クリティカルな質問)を投げてきます。
これに対し教師は、「本に書いてあるから」「ルールだから」で逃げずに、「この著者の視点はこうだけど、こういう反論も成り立ちそうだね」「この言葉を選んだのはこういう情景を強調したいからだよ」と、柔軟かつ多角的に打ち返さなければなりません。
☆☆☆☆☆☆☆
逆に言えば、日頃からたくさんの本を読み、言葉のニュアンスや論理の強度、多角的な視点を面白がってきた教師にとっては、読解授業は「自分の言語体験をフルに活かして、学習者と言葉の面白さをスリリングに味わえる最高にエキサイティングな場」にもなり得ます。
これからの日本語教師は、文法知識を教えるだけでなく、言葉の持つ「空気感・情景・論理の顔」まで手渡せる教師を目指したらいいんじゃないでしょうか?
この中級文型はこの初級文型と同じ意味ですよって説明する前に、色々と考えることもあるのではないでしょうか?
あなたは授業でそう説明していますか?
ほな、さいなら!
2026年08月12日
【日本語学校の宿題事情】教務が一括作成しないシステムにおける現場と学習者のデメリット
このシステムには、かなり多くのデメリットがあるので、今日はそれについて書いてみようと思います。
☆☆☆☆☆☆☆
学校側のデメリット
1 非常勤講師への負担集中とコマ外労働の問題
宿題作成にペイが支払われている学校ももちろんありますが、そうでない学校もあるそうです。
その場合、授業料(コマ給)に含まれない授業外の作業時間(問題作成・レイアウト・印刷など)が大幅に増加し、講師の不満や離職率の上昇につながります。
2 学校全体のノウハウ不保持と属人化
講師が退職すると作成された宿題データやノウハウが残らず、後任の講師もまたゼロから作成を強いられるという悪循環に陥ります。
データとしてストックしていればいいのですが、ストックしていたとしても紙ベースだと、少し日割りのスケジュールがズレただけで、そのストックは使えなくなるという事態になります。
3 文科省の認定をもらえない可能性
このシステム「だけ」を理由に直ちに認定が取り消されたり、不合格になったりする可能性は低いですが、認定申請時の審査や定期的な改善勧告(見直し)において審査上の大きなマイナス(指摘事項)になるリスクは非常に高いです。
認定制度では、「校長や教務主任を中心に、組織として統一された教育課程が編成・運用されているか」が厳しく見られますが、宿題を含む学習教材の作成や評価基準が完全に各非常勤講師へ「丸投げ(ノータッチ)」になっていると、「組織的な教育体制が構築されていない」「カリキュラムの質保証が担保されていない」と判断される要因になります。
学生のデメリット
1 クラス間・期ごとの「公平性」と「質の安定」の喪失
- 担当講師による当たりの差(学習量の不均衡) 講師の熱意や負担感によって、「毎日大量の記述問題が出るクラス」と「数問の選択問題だけのクラス」といった極端な差が生まれ、同じ受講料を払っているにもかかわらず学習機会に偏りが生じます。
- 難易度の乱高下 問題作成の経験や知見にばらつきがあるため、適正な難易度管理がされず、難しすぎて挫折したり、簡単すぎて学習効果が得られなかったりします。
- 不正確な問題による混乱 教務等の校正(ダブルチェック)を通らないため、問題文の誤字脱字、文法的な不自然さ、正解が複数存在する問題などがそのまま配布され、余計な困惑や誤解を招きます。
- 経験が浅い先生にありがちなのが、出題意図がよくわからない問題を作ること。学習目標の出口を設定してないために、無意味な機械的変換練習になったり、正誤判定が曖昧な自由記述問題を作ったりします。また、文法的には正しくてもその場のシチュエーションが未設定なため、回答が複数あったり実用性のない文が解答になるパターンもあります。
- カリキュラム・定期テストとのズレ 宿題が各講師の個人的な判断で作られるため、学校全体の到達目標や定期テストの出題範囲・傾向とズレが生じ、「宿題を真面目にやっていてもテスト対策にならない」という事態が起こります。
- 担当交代時の学習の断絶 曜日ごとに担当講師が変わる場合や、学期途中で講師が交代した際、前の講師が「どこまで・どのようなレベルで宿題を出していたか」が引き継がれず、宿題の形式や難易度が急変してストレスになります。
- 講師のエネルギー分散 講師が授業外の無償・低報酬での問題作成作業に忙殺されることで、肝心の「授業自体の準備(教案作成や教材研究)」や「丁寧な採点・フィードバック」に割く時間と体力が削られます。
- 指導体制の不安定化(講師の離職) 業務負担に耐えかねた講師の退職や突然の交代が頻発し、学習環境の継続性が損なわれます。
☆☆☆☆☆☆☆
教務が一切の宿題を全て作成し、プリントアウトまでやってくれれば、このような問題は発生しません。
ただ、今までずっと非常勤講師が宿題作成を担当してきた学校がいきなりやり方を一気に変えるのはなかなか現実的ではありません。
なので、落とし所として、こんなのはいかがでしょうか?
教務が『80〜90%の完成度の基本プリント(マスター)』を全て作成・用意しておき、現場の講師はそれを印刷して配るだけ(必要に応じて最後の1〜2問だけ現場で差し替え可)とする」
この形にすることで、日常的な作成・校正・確認にかかる無駄な手間を最大級に省きつつ、学校全体のクオリティと労務環境を安定させることができます。
とはいえ、この提案もすぐには実行できない学校もありそうです。
そういう学校で授業を担当している先生は業務として宿題作成が割り当てられている以上、やらないわけにもいきません。
そこで、noteの無料記事に宿題チェックリストを作ってみたので、ご覧になりたい方は参考になるかもしれません。
ほな、さいなら!

