2019年03月

2019年03月30日

私が「自動詞の受身」を「迷惑の受身」と言わない理由

私、普段あんまり名称や呼び方って特にこだわらないんですけど、「迷惑の受身」には違和感を感じます。

あ、これ「授業内容」のカテゴリーにしてるのは、実際に最近行った授業ではないんですが、いつもの初級の授業内での話なんでこのカテゴリーにしてます。


知らない人にご説明。

日本語の受身形って、圧倒的に他動詞(殴られた、盗まれた、などなど・・・)が多いんですが、自動詞を受身形にすることもあります。

例えば、次のような文。

  1. 皆の前で、彼女に泣かれて困った。
  2. 帰宅中に、雨に降られてずぶ濡れになった。

いかがでしょうか? 

なんか違和感感じますか?感じませんか?


私は、1はまだ「迷惑の受身」って説明でもいいような気がしますが、2に関してはどう思いますか?

2の文の「雨に降られる」 って、「自動詞の受身」の代表的な例です。


私、これを「迷惑の受身」って説明するの、違和感感じます。

なんでだろうってずっと考えてたんですけど、「迷惑」という言葉で他者の行為が想定されるからじゃないかと思うんです。

となると、2の文って他者は誰?ってことになりませんかね。

まさか「雨」ではないだろうし。

あ、そういえば、松田聖子さんの「赤いスイートピー」の2番にも「四月の雨に降られて」って出てきますね。


それと、私のこの持論を決定的なものにしたのが、日本語初歩の受身のところに出てきた例文。 

今、日本語初歩が手元にないので正確な文ではないかもしれませんが、

  • 私は小さい時に父に死なれて、苦労した。

っていう文。 

どうでしょう?

父親が死んで、私はそれを迷惑と感じるでしょうか?


☆☆☆☆☆☆☆


ここまでは今まで思っていたことで、なぜ今回これについて書こうと思ったかというと、ここ最近色んな音楽系のスクリプションサービス(月定額で音楽 聴き放題のApplemusicとかAmazonmusicとか)で春歌を聞いてて、あることに気づいたから。

河口恭吾さんの「桜(2013 NEW REMASTER)を聞いていた時に、「やわらかな風に吹かれ」って歌詞です。 

そしてその後、「君と歩いていこう」と続きます。

このケースって、「迷惑」っていうネガティブ側じゃなく気持ち的にはポジティブ側なんじゃないの、とさえ思います。

「風に吹かれて」で検索かけると、色んな歌詞がいっぱい出てきます。

一度やってみてください。 


あと、もう一つのケース。

・電車に揺られているうちに、気持ち良くなって気づいたら寝ていた。

です。 

これも、ポジティブサイドじゃないですかね?


以上書いてきたような理由で、私はこれらを全部ひっくるめて「迷惑の受身」ではなく「自動詞の受身」とシンプルに呼んでいるというわけ。


ほな、さいなら!
 

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akky_san at 19:27|PermalinkComments(0)授業内容 | 文法

2019年03月28日

圧倒的に量が多く価値が高い、ネットにのらない情報

とある本を読んだところ、そこに「全体のクチコミの3分の1がネットのクチコミだ」ってことが書かれてたんですが、どう思いますか?大体そんなもん?多すぎる?少なすぎる?

私は「多すぎる」と感じました。

実際はネットに上がらないクチコミの方が多いんじゃないか、って思うんです。


で、このことと、それがあったのは備前市だったんですが、日本語の情報関係なんでこっちのブログに書いています。


☆☆☆☆☆☆☆


さて、最初はクチコミに絞って書きますが、クチコミって意外と定義が難しいです。

クチコミを評価(主観的)だとすると、次のような場合にそれがクチコミなのかどうなのかがビミョーになります。とりあえず、飲食店に対するものだとすると、

  • ラーメンのスープがぬるかった。
  • 子供が大声で騒いでいた。
  • 店員さんがレジでお釣りを間違えたが、謝らなかった。

などです。

これ、全部客観的な事実なんですよね。

あなたは、これをクチコミであると判断しますか?


私は、クチコミと考えていいと思います。

なぜかというと、私は日本語を論理的というよりは情緒的な傾向が強い言語だと思っていて、察し合う文化だとも思っているから。

「みなまで言うな」とか「〜なものですから・・・(察してください)」的な。


なので、客観的な事実しか書かれてなくても、おそらく書いた人は「読者は言外の意味も読み取るだろう」という前提で書いたと思うんです。


したがって、こういうのもクチコミと言っていいと判断したわけです。


こういうことって、普段の世間話の中で特にその店の話じゃなくても、ふとした拍子に出て来て、また違う話題になるという流れで、しょっちゅうあります。

クチコミだけでも、意外とネット上のものよりアナログの情報のほうが多いんですよね。


で、それ以外の情報全般になると、もっと大きく量に差があります。

SNSで考えると、大まかに考えると

  1. そもそもSNSって何?
  2. SNSやってるけど、発信はせずに専ら閲覧用
  3. 発信するけど、ごく稀
  4. 頻繁に発信する

というグループに分かれます。


次にアプリ関連で考えた場合、例えば個人で経営してる宿泊施設とか。

私もよくあるんですが、その地域の宿泊施設で登録されているホテルや旅館が超少ないのに、実際行ってみると意外とたくさんあったり。

頭が古い経営者だと、そういうアプリの存在すら知らないため、こういうことが起こります。


この辺りの情報格差って、私は日本でどんどん広がって行ってると強く感じます。


また、私個人の1日の生活を考えても、例えば私が朝ごはんに何を作って、それをいつ食べてどう思ったのかなどなど、私が意志的にネットに上げなければ誰にも知られないアナログ情報です。


ここまでは量の話。


☆☆☆☆☆☆☆


以前、山野草のお店に連れて行ってもらった時(→吉備国の歴史を巡ってきた その1 亀々原・金鶏塚古墳&1号窯跡〜大塚古墳 + 盆栽と山野草の店「清雅園」さんへ)に、誘ってくださった山野草に非常に詳しい方と話をしていて、こんなのもあるあんなのもあるとお聞きしていた時のこと。

ちなみに、この時にいただいた「ハナニラ」は今こんな感じです。

ハナニラ



その方は私よりまあまあ年配の女性なんですが、結構ネットを活用される方で、私が山野草にあまりにも疎いのでGoogleで画像検索かけて「こーゆーの」って教えてくれていて、「ルリイロヒルガオ」って花の画像をGoogleで調べていた時に「うーん、出てこんわ。」っておっしゃったんです。

私、驚愕しました。

なぜか分かります?


このことは、

Googleには無い情報を、この方は持っている

ってことを意味するから。

超ビックリしたと同時に、「そんなことってあるの?」とも思いました。


私もGoogleで「ルリイロヒルガオ」を検索しましたが、「チシマルオダマキ」がやたらと表示されるだけです・・・


ご本人はそれに気づかれてないようですが、これって相当価値が高いことなんですよね。


この方相当博学な方で、話をすると私が初めて触れる情報が洪水のように押し寄せてくる感じ。


それから、ネットにのらない情報として、日本語教師勉強会での会話の内容もあります。


例えば、とある学校で起きたことなんかが挙げられます。

ネットにのせられない、つまりあんまりポジティブじゃない情報。


また、ご自分の勤められてる学校の話の時に、それを話してくださる先生が「ブログには書かないで欲しいんですが・・・」というケースや、これは書くとご本人が特定される可能性があるなと私が判断した内容の時も、私が自主規制してブログには載せないってこともありました。

そういう内容って、確信はありませんがオンラインでのコミュニケーションにものせにくいように思うんですが、どうでしょう?


まあそういうことにどれくらいの価値があるかは、受け取られる先生の感じ方次第なんですが、一応勉強会にはそういう価値もあったってことかなと。


☆☆☆☆☆☆☆


私なんかはややもすると、分かんないことがあってもとりあえずネットで調べれば情報が出てくるだろう、と思いがちだったんですが、必ずしもそうとも限らないってことを理解しました。



 

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akky_san at 21:49|PermalinkComments(0)日本語 | 価値

2019年03月26日

私が採用試験の模擬授業で見ていたポイント2つ

今日、Twitterでフォロワーの方が模擬授業関係で呟かれてたので(リツイートできなくてすみません。タイムラインで流れて行っちゃいました。)


もちろん前提として、テクニカルな部分はその先生がどれくらい経験がおありかによって違います。


例えばほとんど経験が無い先生の場合、どの国籍の学生がどんな典型的な間違いを犯すかってことを知らないので、その辺りの質問をしてその知識があるかどうかを判断したり、例文がよく吟味されているか、そのQで学生が何をしないといけないか把握できるか、と行ったところを見たりします。


あとは、声の大きさや話すスピード、間の取り方、ホワイトボードの使い方などを見ます。

本当はもっとたくさんの項目を見てるんですが、全部は書ききれないのでこんだけにしときます。



☆☆☆☆☆☆☆



そして、これ以外に私が模擬授業を通して見ているポイントが2つあります。



1 自分の授業に誠実かどうか

上記のテクニカルな部分とは異なり、これは経験の有無や長短に関わらずどんな先生が模擬授業をなさる場合にも共通していることなんですが、これだけだと抽象的すぎてわかりにくいと思うので、ご説明。


ただ、説明の前に、これ読んでるあなたがもし日本語教師だったらちょっとお聞きしたいんですが、通常自分が担当してる授業と模擬授業と考えた場合、もしその場で答えられない質問をされた時に対応は変わりますか?それとも、同じですか?


なぜこのようなことを聞いたかというと、おそらく日本語教師ってその場で答えられない、つまり分からないことを質問されたら、おそらく次のような対応をとると思うから。


1 その場で考えて答える

2 言い方を変えただけで、本質的には同じことを何度も繰り返す

3 その場で調べる

4 分からないと言う


で、先ほどの質問をしたのは、


自分の授業では4を選ぶけど、模擬授業では1とか2をしたことがある先生


っていそうな気がするから。



私は、1と2の対応は、自分の授業に対して不誠実だと考えています。


まあ、緊張してる時に思いも掛けない質問をされて、テンパるのも分からなくはありません。


なので、日本語教師としての初授業のみ例外だと思っていて、2回目以降それをやるのは誠実とは言えません。



私は採用試験で、結構1とか2のパターンに遭遇しました。


その先生はもうお忘れかもしれませんが、例えば自動詞と他動詞の導入で明らかにその先生の出す例文が「意志動詞」と「無意志動詞」の分類だったから、そのあたりを質問すると「いいえ、自動詞と他動詞の分類です。」って言うので、「他動詞と意志動詞、自動詞と無意志動詞は同じモノですか?」って聞くと、「はい。」って答えてはりました。


あと、「~について」の模擬授業で、「~に」との違いについて質問すると、その先生は的からめっちゃ遠いところを答えたのでもう一度ちょっと方向を変えて質問すると、その先生は先ほどの説明を英語で答えてはりました。


これらは分かりやすい例だから出したんですが、こう言うパターってよく見ました。


とりあえずこれで押し切る、的な。



私、最初の学校で初級の文法と中級の文型をそれぞれ3つの中から1つ選んで模擬授業をするってシステムで、中級文型の模擬授業でよく意味が似ている文型との違いを聞かれ、「え、分かりません。」って答えちゃいました。


落ちたな、って思いましたもん。

さらに、このブログでもよく書いてますが、人生初授業見学(される側)で学生にされた質問が難しくて答えられなかった時に、見学に来てた先生にその質問をふりました。


模擬授業にも見学にも両方来られた先生からは、「この(エリート的な先生が多い)学校でああ言うことしたの、akky先生だけですよ。」って言われました。


でも、分かんないもんは分かんないですし。


それに、経験の浅い自分がその場で考えて出て来たことなんて、かなりの高確率で間違ってそうだし、その答えを言ったところで専任の先生にはいい印象は与えないだろうし。


それだったら潔く、「分かりません。」って言おう、という考えからの行動です。



日本人もそうですが、やっぱり東アジアの人って、「間違えることや知らないことは恥ずかしいことだ」って思いすぎてる気がします。


特に、誰かに何かを教える立場の人。


そのため、私は日本では相手が間違ったとしてもそれを指摘しにくい空気をよく感じます。

で、このことは皮肉にも、意欲的な日本語学習者の日本語がなかなか上達しない一因でもあると考えています。


聞いたことありません?「私の日本語が間違ってても、周りの日本人はそれを直してくれない。」っていう不満の声を。


もうね、留学生でも実習生でも誰でもいいですけど、日本語学習者がアウトプットした日本語が間違ってたら、遠慮なく指摘していきませんか?


話を戻します。


私は、そういう体裁を取り繕う日本語教師が最初から誠実じゃなかったわけではなく、体裁を重視して分からないにも関わらずそれを取り繕うとした結果ってことじゃないかと思うんです。


これも優先順位なんですよね。


どういうことかというと、取り繕う先生って「学生に間違ったことを教えない」ってことより「自分が分からないってことを認めない」ってことを優先した結果ってこと。


優先順位、大事です。


2 学生からの質問を正しく理解しているかどうか

これも経験が浅い先生が行いがちなんですが、自分が説明するのにいっぱいいっぱいで、学生の質問に全然気づかなかったり、気づいたけど学生の質問の意図と全く違う理解をしたりします。


特に後者はよく見て来ました。



どっちかというと、採用試験の模擬授業でも多かったですが、それよりも授業見学でよく見たように思います。



もうね、聞いてるこっちがイライラしちゃうんです。


私もよくそういうことするんですが、聞いてる学生も先生に質問内容が伝わらなすぎて、途中で「もういいです。」って言って諦めてました。


こういう授業をしばしば見てたので思うのが、結構自分でそれに気づいてない日本語教師って、どれくらいの割合かは分かりませんが結構いそうってこと。



実はこれも優先順位で、「学生に理解してもらうこと」よりも「その説明をする、あるいは説明しきること」を優先した結果とも考えられます。



☆☆☆☆☆☆☆



以上が、採用試験の模擬授業でakkyが見るポイントだったんですが、勉強会の模擬授業ではみなさんある程度以上の経験がおありの方が多くその必要が無いので、今日書いたようなポイントでは見てませんでした。


お渡しできなかった先生もいると思うんですが、何人かの先生には模擬授業を見るときのポイントのシートを渡したので、それが日本語教師勉強会でのポイントです。



学校や先生によって見るポイントは違うと思いますが、一応私はこの2つを見ていたってことですかね。



ほな、さいなら!



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akky_san at 21:31|PermalinkComments(0)日本語教師 | 評価

2019年03月24日

akky が考える、将来こうなるであろう日本語教師のリクルーティング

ここ最近も、日本語教育関連以外の本を貪り読んでるakkyです。

今読んでる本の紹介はちょっと後で行うとして、日本語教育以外のジャンルではあっても共通点があったり関係すると私は考えることが多いので、それ関係の記事です。

で、今回は組織で働く場合と個人のフリーランサーで働く場合があると思うので、完全に食い違うわけではなく共通することもあるのですが、分かりやすくするために分けてみました。


☆☆☆☆☆☆☆


1 学校などの組織で働く場合   その人の過去のSNSでの発信がチェックされる


これ、自分の行動を振り返ってみたら、浮かんできた考えです。

見るからに「この人、ネットとかSNSとか疎そうだな」って人は例外ですが、ある程度そういうのをやってそうなまだあったことない人がどういう人か知りたい時には、私はググります。

次に、ググった結果を見たり、その人がやってそうなSNSのあたりをかけて、そっちでまた検索をかけます。


そうすれば、その人の属性や過去の行動、興味の対象や、どんなことを考えてそれをどのように発信しているのか、ってことが把握できます。

まあ時々完全放置している人や、利用しているSNSがLINEだけって人もいたりしますが、それで相手の色んなことが分かります。


今読んでいる本に、「組織はその人のスキルより心理的特性を持った人を採用する必要がある」という内容のことが書いてあり、SNSでの発言などを詳細に調べれば、パーソナリティもある程度は理解できます。


例えばTwitterだと、よくある「炎上」に加担するような人や、執拗に攻撃的な物言いをする人が採用されるチャンスは低くなると言わざるを得ません。


私ごとですが、昨日バイトに来てくれてる高校生男子に、「Twitterやったほうがいいよ。まあたまにならいいけど、あんまりネガティブなことばっかり呟いてると、それが(彼らにとっては)しばらく先になるであろう就職の時に、引っかかってくるかもしれないから、ちょっと気をつけて発信したほうがいいかも。」って言っておきました。


逆に、価値の高い発信(それは受け手によって異なりますが)をしている人は、良い条件で採用される可能性が高くなります。


これが、既に始まってる「評価(信用)経済社会」ってことなんです。(→組織から出た時に、自分にどれくらいの価値がありますか? もう止められない評価経済社会への動き) 


そしてこのことは、もちろんフリーランスの日本語教師にも当てはまる基準です。


2 フリーランスで働く場合   学習者から時間と空間を共有したいと思われるかどうか


私は、リアルな場で時間と空間を共有するのとオンラインでは、圧倒的に前者の価値が高いと考えます。

なぜかというと、前者のほうがハードルとコストが高いからってことですかね。

どういうことかというと、前者の場合はその時間を確実に空けておき、時間とお金を使ってそこへ移動する必要があります。

場所については、その時に自分がいる場所と何かの行われる場所が近ければあまりコストはかかりませんが、私はコストより行動ハードルの高さが価値にダイレクトに影響すると思っています。


これには人間の認知バイアスが深く関わっていて、人間は緊急性は無いけど価値が高いこと(例えば、(小説とかではない)何かを知るための読書やダイエットなど自己投資的なこととか)よりも緊急性は高いが価値が低いこと(午後からの会議の資料作りや、学生とかだと明日提出しないといけないパターン的な宿題とか)を優先してしまいます。

特に、ツールや他の人の手を借りずに、全部を自分の手足を動かして終わらせようとする人は、どんなに前段階でその予定が分かったとしても、その特定の時間を確実に空けておくってことが難しくなります。


逆に考えると、確実にある特定の日時を空けておくことができる人っていうのは、タイムマネジメントが上手い人ということになります。


どう考えても、タイムマネジメントができるのとできないのとでは、できるほうのの価値が高くなります。


反対にオンラインレッスンは低廉化していきそう。(→akky がオンラインレッスンを勧めない3つの理由


1のところにも書きましたが、これは普段のSNSでの発信も影響します。

その教師と時間と空間を共感したいかどうかは、SNSでの発言で判断されるから。


それと、実用性だけのレッスンではそこまでそういう点で付加価値をつけられないんじゃないかと私は考えます。

私がスペイン語を学んでいて思うのは、先生が教養ある先生で本当に良かったってこと。

言語そのものだけでなく、そのバックグラウンドである歴史的経緯なども教えてくださるので、私のスペイン語の理解をさらに促してもらえていると感じています。

私はスペイン語の「性数一致にやたら厳密に一貫性を持たせるのは、レコンキスタの影響が大きい」んじゃないかと思っているんですが、これも先生が色々教えてくれたからこその仮説です。


☆☆☆☆☆☆☆


このように考えると、ツラくなるのは全くネットやSNSで発信してない先生。

発信してないってことは、その世界には存在しないってことと同義です。

上記のような書き方をするとひどい書き方って思われるかもしれませんが、その人はその場で誰にも価値を提供していないのだから当然です。


また、SNSでも「もらうだけの人」もまあまあキツいです。


最後ちょっと暗い話になりましたが、私はこういう傾向を良いことだと考えています。


今なおSNSには炎上や誹謗中傷、金品の授受によって発生する製品レビューへの書き込みなどの問題が存在しますが、この傾向も徐々に改善しつつあるとも感じています。

ちょっと今変わりつつある過渡期なんじゃないですかね?


あなたはどう感じますか?


私がなぜ良いことだと考えるかというと、炎上などが改善されればより「公正な社会」に近づくと思うから。


昔は旅行に行くにしても、旅行雑誌に掲載されている宿泊施設しか私の目には触れなかったのに対して、最近はグーグルマップを見れば宿泊施設だけでなく周辺の飲食店の場所なども分かる上に、利用客からの評価も掲載されています。

私には、世の中が徐々に良くなっているように感じられます。

日本語教育業界は、どういう方向に進むんでしょう?


ほな、さいなら!


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akky_san at 15:54|PermalinkComments(0)日本語教師 | 未来像

2019年03月19日

Shakiraさんのスペイン語の歌を聴いてて気づいたことと、言葉遊び

現在も、スペイン語の学習継続中のakkyです。


ちょっと前までは、スペイン語アプリの日本語の文を聴いて、その直後に同じ意味のスペイン語の文の2回のリピートを聴くって学習方法をしてました。

ただその学習方法だと、出て来る語彙が限られて来るので、語彙を増やすために色々なスペイン語が出て来る「歌」を聴くって方法に切り替えました。

当初は、私にとって馴染みがある相当昔のアルバムを聴いていたんですが、今日2017年の「EL DORADO」 ってアルバムを聴き始め、冒頭の「Me Enamore(最後のeにはアクセント記号が付きます)」を聴き始めた時のこと、あることに気づきました。

その歌詞の部分を、引用してみます。(すみません。アクセント記号の入力の仕方が分からないので、本来アクセント記号が必要なものがあります)

De quien me andaba quejando
No se que astaba pensando
Voy pa' el cielo y voy patesando 

もうおわかりですよね?

韻を踏んでるんです。

で、私が気づいたことが何かというと、

スペイン語は韻を踏みやすい言語である

ってこと。


この歌の他の部分を見ても、「bonita」、「recondita」、「barbita」 で押韻してます。


私はスペイン語学習に関してはまだまだ初級レベルなので、韻を踏みやすい理由ははっきりとは分かりませんし、他の言語よりその傾向が強いのかどうかも分かりませんが、もしかしたら「性数一致に厳密な言語である」ってことが影響してるんじゃないかな、と考えています。


☆☆☆☆☆☆☆


これで思ったのは、韻を踏むすなわち押韻って文学的技巧なので、意思の疎通のためとか必要だから行うことではありません。

むしろこういうのって一種の言葉遊びで、表現に変化やリズムをつけたいとか、読む(私の場合は「聴く」ですが)人に可笑しみを感じて欲しいとかっていう、実用性とは対極のものです。


そしてこのような押韻はヨーロッパだけでなく、私たちが高校生の時に習った中国の「絶句」や「律詩」にもその特徴を見ることができます。


これは、私が最近ずっと書いている「語学学習において重視されていく教養の重要性」(→最近の日本語教育の教材は「実用性」に傾いて「教養」が置き去りだけど、多分将来その価値は逆転します)とも関係性が深いです。

なぜかというと、韻を踏もうと思うと、意思が伝わるだけの必要最小限の語彙しか知らないとそれは難しく、やはり1つの意思伝達でもバラエティに富んだ表現や語彙を知っていないとできないからです。


☆☆☆☆☆☆☆


私は個人的に、「万葉集」、「古今和歌集」、「新古今和歌集」の中だと「古今和歌集」が好きなんですが、文学的な評価は低く、それを残念に思ってます。

おそらく評価が低いのは、「技巧に走りすぎている」からじゃないかと思っていますが、そういう言葉遊びに熱中できるって素晴らしいと思うんです。

文学以外にも、クラシック音楽の「パガニーニの超絶技巧」とか普通に呆気にとられるくらいすごいですもん。

ここまですごいと、「技巧 = 小手先」とは全く感じないレベル。


韻を踏むっていう技巧を用いるなんて、意思疎通をしたいだけの人には想像もできないことなんじゃないかと。


ほな、さいなら!


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akky_san at 20:21|PermalinkComments(0)スペイン語 | 表現