2019年04月

2019年04月26日

教養がある人との雑談は人生を豊かにしてくれると確信できた今日の出来事

今日の夕方庭仕事をしていると、先日知り合いになった近所のおばあちゃんが家の前を通りかかったので挨拶をすると、そのまま雑談へ。

知り合いになった時は、黒松の剪定のやり方を教えてくれ、さらにわざわざお宅まで連れていって説明してくださいました。

その時に、見たことがない花があったので何かと聞いたところ、「ん〜なんじゃったかな〜?もう年寄りじゃけん名前が出てこん!(ん〜何だったかな?もう年寄りだから名前が出てこない)」とおっしゃっていて、私が「八重の山吹とかですか?」と聞くと、「そうじゃそうじゃ、山吹じゃ。」という反応。


ところが、花の名前がわかったにもかかわらず、何かを思い出そうとしているようにも見えたのですが、この時はここでおいとましました。


そこからの、今日の雑談。


おばあちゃん「やっと思い出したんじゃ!」と言い放ち、

七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞかなしき

という和歌を引用したんです! 

さらに続けて、「うちの山吹は八重じゃから、実がつかんのんよ。(うちの山吹は八重だから、実がつかないんですよ)」ともおっしゃってました。


まさかの、田舎のご近所さんとの雑談の中の、園芸の話題からの和歌です。

和歌を知ってるのは、教養以外の何物でもありません。

因みに、どういう和歌なのか気になる人は、こちらへどうぞ。 → 兼明親王 千人万首


おばあちゃんは、おそらく「女子が大学に進学するなんて、とんでもない!料理や裁縫など家事ができればそれでいい」っていう時代だっただろうから、高等教育で得た知識ではなさそう。
 
つまり、文学部で学んでない人であるにもかかわらず、このレベルの知識をお持ちってこと。


私は、備前市の特に年配の人と接してて感じるのは、一般人だろう人の教養レベルがハンパないってこと。

文化水準が高いんでしょうか?


ただ、今日の夕方のこの会話で返す返すも残念なのは、無教養の私がその和歌を知らなかったこと・・・

知ってれば、話も弾んだでしょうに・・・


とはいうものの、私もその会話の後にググって、その歌がどういう状況で詠まれどう意味だったのかについて調べ、今までよりちょっとだけ世界が広がりました。

もしこの会話がなければ、一生触れることがなかったかもしれません。


このように、教養がある人との会話は私の世界を広げ、その人生を豊かなものにしてくれるのだなと改めて感じました。


☆☆☆☆☆☆☆


翻って、日本語学種についても同じように考えられます。

こちらのエントリ(→雑談を贅沢なものだと考える理由4つと、約半分の時間が雑談で占められている私の受けるスペイン語レッスン)にも書いたように、私自身スペイン語の学習には教養のある先生に教えていただいて、ホンマに良かったと思ってます。 

これと同じようなことが、近い将来、日本語教育の世界でも起こってくるんじゃないかと私は考えています。


そうなってくると、おそらくそういう学習者に選ばれるのは、

  • 日本語の知識と教授力が、ある一定レベル以上に達していて
  • 日本語教育の論文などを読んだ上で
  • それ以外のジャンルの知識も豊富に持ち合わせている

日本語教師です。 


こういうことを書くと、「教養なんかなくても、授業に支障はない」とか「そんな小難しいことを学習者は望んでない」とかいう反論が聞こえてきそうですが、多分それは学習者のマーケットが異なるから。

サバイバルするためだけに日本語を必要とする人には、もちろん教養などというものは不要です。

なぜrなら、教養って難しい概念に思えますが、教養というのは「生活していくためだけであれば全く必要なく、そういう目的ではむしろ不要ではあるけれども、生活や人生を豊かにしてくれるものであるから。

このように書くと、私のように教養があまりない人間は賢(さか)しらにしようとしますが、そういうことをするより「私は教養がありません」って認めたほうが楽チンです。


私は今の段階ではそれほど教養が無いので自己研鑽しながら、そういう「教養がある教師に教えてもらいたい学習者」のマーケットから弾かれないようにコツコツ自己研鑽をしていきたいと思ってます。


あなたはどう思いますか?


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akky_san at 20:28|PermalinkComments(0)日本語教育 | 将来

2019年04月20日

授業初日でクラスの学生全員の顔と名前を覚えてますか?

このタイトル、私の意見や主張というよりは、単純な質問です。


新学期が始まり、Twitterなどでも初授業がどうだったかやクラスのメンバーの様子などの報告が飛び交っている頃ですよね。

 
なので、今日歩いててふと初授業で思い出したので、今日はこれを書きます。


☆☆☆☆☆☆☆


私はこのブログの中で、私が新人だった頃にその学校で受けた勉強会について何度か書いているんですが、今回もその勉強会関連。 


当時その勉強会を担当してくださっていたのは、その(ただでさえベテランばっかりの)学校の2トップのお一人で、未だに私にとっては雲の上の方。

その勉強会で先生がおっしゃったのは、文脈は忘れましたがタイトルの内容である「授業初日でクラスの学生全員の顔と名前を覚えてください。」ってことで、さらにそれに加えて「もしお出来になれないんだったら、お辞めになったほうがよろしいですよ。」っていう一言。

「うわ〜、キビシイな〜」と当時は思いました。

でも、日本語教師を大きく捉えるとサービス業に分類されますが、サービス業で顧客の顔と名前を覚えないと色々キビシイかと・・・

私ごとで恐縮ですが、今住んでいる備前市のとある飲食店に私は3、4回行ったんですが、店のご主人は4回目でも明らかに私を初めて来た客と思っていたように振舞っていました。

その店は、私が2拠点生活を続けている間に閉店しちゃいました。


5000人の顔を覚えているホテルマンがいるそうですが、そこまででなくても2回目にあった時にすぐ思い出せるようにしておかないと、と考えます。

なので、そのためには初日授業で学生の顔と名前を覚える必要があります。

 
もちろん担当するクラス数やクラスの学生数によっても異なりますが、私より15歳くらい年上の先生が、「60人はキツい!」って言っていて、これは「初授業の週の全ての担当クラスの学生の合計が60人で、その60人をその週に全部覚えるのはキツい」ってことを意味します。

私、60人も無理です。

担当した学生数が過去最も多かったのは45人くらいで、それくらいが限界です。


 初日に全員の顔と名前を覚えると起きる良いことは、同じクラスを担当してる「覚えてない先生」と比べ、学生の態度や取り組みがポジティブになる、ということ。

私は、このような態度の違いは彼らが打算的というよりも、まあそれはそうなるよね、と思います。


それと、以前私が主催してる日本語教師勉強会でも話したと思うんですが、私が用いる「学生の顔と名前を覚えやすくするための

  1. 学生の名前と顔を覚えやすくするための話題
  2. 学生の名前と顔を覚えやすくするための質問

があります。

ブログに書いたかどうかははっきり覚えてませんが、おそらく書いてないような気がします。

当時から私は、一般の読者の方よりリスクをとってご参加してくれている先生のほうのプライオリティが高いと思っていたので、先生方が得た価値の高い情報は先生だけにお伝えして、ブログには開示しなかったと思います。


☆☆☆☆☆☆☆


私の考える、行なっていた勉強会やこのブログの役割の1つが、「私が新人の頃に得た知識を、次世代の日本語の先生方に繋いでいく」なので、その情報の1つを今日書いたわけです。


ほな、さいなら!


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2019年04月17日

岡山県民の敬語使用の傾向と、高校生男子にも必要かもしれない日本語の授業

大阪と岡山を行き来してると色々気づかされることがあるんですが、岡山県民の会話を客観的に聞いていると、敬語の使い方の傾向が独特だなって思って来ました。

その特徴が、こちらの3つ。

  1. 「〜れる」「〜られる」を多用する
  2. その「〜れる」「〜られる」に「〜てください」をくっつけて使う人もいる
  3. 「〜てやってください」を尊敬語として使う

です。 

まず、1については大学進学で大阪に出て、何度か帰省しているうちに気づいてました。

なので、そのことはずっと前から知ってたんですよね。


それに対して、2と3についてはやっと最近気づいたことです。


まず2については、

  • (ある場所への行き方を説明した後で)今度ぜひ行かれてみてください。

といった使い方です。

さらに3とのミックスで、

  • (何かの使い方を説明してから)使われてみてください。

っていう使い方も聞いたことがあるように思います。

こう書いてくると「〜てみる」との親和性が高そう。あと、未来のことに使われることが多そう。


ただこれ、日本語教育の文脈では私は誤用だと思うんですが、これ読んでる日本語教師の方はどうなんでしょうね?

例えば、

  • 今晩、私の宿題をちょっと手伝われてください。

って外国人留学生が書いた文が出て来たら、◯にします?それとも訂正します?


3については、

  • (何かの資料を相手に渡して)読んでやってください。

的な使い方。

なんとなくその場にいて、「あ、丁寧な言い方がしたいんだろうな」って感じるので、おそらくそれを言った人は「敬語」的に使ってるんだろうと考えられます。


☆☆☆☆☆☆☆


ところで、こないだ3人のバイトくんたちと「古文」についての話題になった時に、「古文で使われてる子語文法って、意外とスペイン語と似ていて、主語は省略されがちだけど動詞の形で誰が主語かを読み手に類推させるんだよね。」

という話をしました。

そのあと、「例えば登場人物の人間関係を把握した上で、尊敬語が使われているか謙譲語が使われているかを判断し、身分が高い人と低い人どっちがどっちに何をしたかを敬語で判断するってことなんだよね。」

と言ったところ、

「あ、オレ尊敬語とか謙譲語とか苦手っす!」

って返って来ました。


「えー!マジかっ!」って思いましたし、さっき調べたところ中学校で習ってるはずなので、一応その知識は教わってはいるんですよね。


でも、「あ、それも仕方ないかも」とすぐ思い直したのは、岡山県民の敬語使用が上記のようだから。

つまり、彼らが見聞きしたり自分で使うときの敬語が非常に限定的なんです。


尊敬語はザックリ分けると3種類あって、

  1. 違う動詞になるもの(食べる→召し上がる、する→なさる など)
  2. お/ご〜になる(お呼びになる、ご活躍になる など)
  3. 〜れる/られる

です。

少なくとも私に関して書けば、使用頻度は 1 > 2 > 3 になります。

1に含まれない動詞は2の形にすることが、3の形にするより多いからです。


で、彼らは1や2の尊敬語に触れる機会が少ないため、「苦手っす」って発言になったのではないかというのが、私の仮説です。


☆☆☆☆☆☆☆


私は、彼らのような日本人高校生にも、ここで取り上げた敬語なども含めて日本語の授業を行う必要があるんじゃないかと考えています。


最近、ルーツが日本人とは異なる子供に対する日本語の授業の必要性が叫ばれていますが、私の考えでは意外と日本人高校生の中にもそれを必要とする人がいるんじゃないかな、と。


大学で日本語教育を教えている先生の中には、「日本人が日本語分かってない」とお嘆きの先生もいらっしゃいますし。

それなら、高校生のうちにそういう知識が必要な人には私がそれを伝えるのもありかな、と思うんですよね。

もちろん、私の彼らに対する授業は無料です。


あなたはどう思いますか?


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akky_san at 21:04|PermalinkComments(0)方言 | 岡山弁

2019年04月11日

タスク的会話の淘汰は、私の予想より早く起こるかも

以前私は、こんなエントリ(→高生産性社会への移行で不可欠になる読解力と、淘汰されるであろうタスク的会話)を書きました。

この記事では、それがいつ頃になるのかということについては書いてなかったんですが、意外と前倒しされるんじゃないかって思うことがあったので、書いておきます。


☆☆☆☆☆☆☆


私は勝間和代さんのメルマガに登録しているのですが、今朝配信されたメルマガのタイトルがこちら。

「リアルタイムの自動翻訳機はいつくらいにできるのか」

です。


勝間さんはGoogleの日本本社に遊びに行き、当初は音声入力が話題だったのが自動翻訳の話になり、ここ3ヶ月でGoogleの自動翻訳の精度が劇的に上がったと聞かされたそうです。

さらに、勝間さんがリアルタイム翻訳が可能になるであろう年数を提示し、どう思うかGoogleのエンジニアさんに尋ねたところ、もっともっと早いだろうと返ってきたそうです。

そのあとのメルマガの内容を引用します。

メルマガのその時点までの日本語を援護翻訳にかけ、それを読んだ勝間さんの感想です。

まぁ大体は分かりますけどやはり結構間違ってますよね。でも意味はほとんど通じるのでそれで十分と言えば十分かもしれません。 まあ少なくとも私が翻訳するよりもずっと正確です 。


あなたはどう思いますか? 


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akky_san at 21:35|PermalinkComments(0)日本語教育 | 将来

2019年04月06日

日本語学習が個人化されるほど重要になるスキルと、それに伴う空間共有の価値の上昇

なんか最近、スキル系のエントリばっかりになってますが、何でなんですかね?

読んでる本の傾向とかですかね?


さて、私は前から書いているように(→もし目の前に日本語教育能力検定試験に合格したばっかりのakkyがいたら、現akkyが提案するキャリアは何か?)、語学学習全体でもそうなると思うんですが、これからは語学学習は仕事で使うからとかいう必要性や実用性は価値を下げ、趣味でとか教養を身に付けたいからといった個人的な動機が取って代わると考えています。 

言い換えると、今のようなハコとしての日本語学校での一斉授業ではなく、もっとニッチな市場での超個人的な学習になっていくということ。


☆☆☆☆☆☆☆


ところで、私が専任講師だった時の業務でオブザーブ(定期的な授業見学)がありました。

そこで私が気づいたことや思ったことを、その先生にフィードバックするためです。


で、色々気づいたことがあるんですが、まあ緊張してるっていうのもあると思うんですが、学生の反応や様子に全く無頓着の先生が、案外多かったんですよね。

例えば、先生が学生を指名して答えさせている時に、確かにその学生には注目してるんですが、それ以外の学生には全く注意を向けないパターン。


でも思うんですけど、私はそういう情報こそ重要なんじゃないかと。


私は、定期的に催される形骸化された会議があまりにも退屈なので、よく会議中に参加者の発言中の目の動きとか足の向き、何かを考えている時に右上を見るのか左上を見るのか、とかよく観察してました。


ここまで書いてきたら、もうお分かりですね。

必要なスキルとは、洞察力です。

有名なところでは、シャーロック・ホームズが初対面の人の職業を、相手の外見から洞察して当てるといったようなこと。


私はもともと洞察力は無かったんですが、一斉授業や面接練習などで知らず知らずのうちに身につけたんだと思います。


とはいうものの、一斉授業で全員の心理状態を洞察するのは不可能で、どうしても限界があります。


というわけで、この文脈での個人レッスン。

相手が1人だけ(もしくは2人など洞察の範囲が届く人数) だったら余裕で洞察力を働かせることができます。

学習者である相手の心理状態を全く把握していない場合と、洞察を通して心理状態を把握しながらの場合とでは、明らかに後者のほうが教育効果が大きいです。 


ところが、空間を共有しているのに比べて、オンラインレッスンではこの洞察力を働かせにくくなります。

どうしてだか、分かります?


それは、今のオンラインレッスンって大体胸から上が見える程度で、教える側が洞察できる体の部分が限定されるから。

つまり、足の向きや手が画面内にない場合の手の動きなどを、教師が見ることはできないっていうことなんです。

そうなると、学習者の精神状態を正確に判断することが難しくなってきます。


私は個人的に、付加価値という文脈(→akky がオンラインレッスンを勧めない3つの理由)からもオンラインレッスンはちょっと・・・、思ってるんですが、このように学習者をできるだけ理解するという文脈でも、やはり空間を共有したほうが良い結果に結びつきそうだなとも思いました。


まあ、オンラインレッスンをやりたい人はやったらいいし、それを否定するつもりも毛頭ありません。

ただ、私はそれを選ばないってだけで。


ほな、さいなら!


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akky_san at 22:14|PermalinkComments(0)日本語教師 | スキル