2021年04月27日
「学習者の発話量が増える=会話の能力が上がる」ってことなの?
以前私が働いた学校で行動中心アプローチの教材に変更し、半年経った段階で会議が行われました。
そこで行動中心アプローチを導入した効果はどうかという話になり、該当レベルである初級と中級のレベル担当講師の初級の先生が話した時のこと。
「以前元の教材を使っていたクラスより、発話量が増えました。」
とのコメントに、会議に出席されてたほとんどの先生が「素晴らしい!」って反応だったんです。
私はその時「エッ?」って思いました。
これ、どうしてだか分かります?
どういう事かというと、「発話量が増えたことを評価する」ってことは、
発話量が増える=会話の能力が上がる
ことを前提としての反応なんですが、私にはそういう前提がなかったってことなんですよね。
私としては、
話の量が多い=話が長いってことで、会話って長けりゃいいってもんではなく、伝え方と中身のほうが重要。むしろ簡潔に短くまとめつつ要点を押さえた発話のほうを評価したい
ってスタンスです。
あ、雑談は別です。あれはダラダラしてても全然問題なし。
問題なのはタスク的会話。
あと会話の量ではなく伝え方が重要って観点から書くと、初中級の学習者で時々見られるのですが、「〜てから」と「〜たあと」の違いや、「〜から」や「〜たら」の概念が理解できていないのか、例えば一日の行動を全部「〜て」で繋ぎ、非常に冗長な文を発話する人がいます。
こんな感じ。
・朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、ジョギングをして、シャワーを浴びて、朝ごはんを作って食べて・・・
的な発話。
こういう文って、最後のほうに差し掛かると最初何をどうしたのか、聞いてるほうは忘れちゃったりします。
そうではなくて、例えば、
・私は太りたくないから、朝起きて顔を洗って歯を磨いてから、毎朝ジョギングをしています。ジョギングが終わったら、シャワーを浴びて、朝ごはんを作って食べます。
こっちのほうがスッと入ってきませんか?
どちらの会話の能力が高いかは、いうまでもないでしょう。
会話の中身の点で書くと、初中級に入ったあたりから意見が言えるようになるので、聞きかじりの通り一遍でない意見が言えるってことを評価したい。
奇をてらってなくても自分なりの意見が言えるかどうかを、私は会話の能力の基準になると考えているから。
最後に、よりコンパクトな発話を評価したい理由について。
会話の能力が高ければ、会話が短くても長い発話より情報量を多くすることが可能に。
何がそんなことが可能にするのかというと、
幅広く日本語の語彙を知っていて、その中から適切なものを選べる
能力を持っているってこと。
こちらご覧下さい。
これは、槇原敬之さんの「SPY」という歌の冒頭部分の歌詞です。
この部分の情報量の多さ、分かります?
解説すると、
主人公の男性と(おそらく恋人の)女性がデートの約束をしていたにもかかわらず、デートをする前に女性から延期(あるいは中止)を求められ男性も了承する。がっかりしていたものの、男性にとって嬉しいことが起きる可能性が暗示されている
ってことを22文字だけで表現してるんです。
これ、凄くないですか?
一応、YouTube貼っておきます。
まあここまで高度でなくても、どの語彙を選ぶかによって発話量が多くなくても情報量を増やすことが可能なんですよね。
そしてその前提として広範な日本語の語彙を知っていて、かつ適切に選ぶことができるのは、れっきとした会話のスキルだと考えています。
こう考えてくると、単純に「学習者の発話量が増える=会話の能力が上がる」とは必ずしも考えられないんじゃないでしょうか?
ほな、さいなら!
日本語ランキング
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そこで行動中心アプローチを導入した効果はどうかという話になり、該当レベルである初級と中級のレベル担当講師の初級の先生が話した時のこと。
「以前元の教材を使っていたクラスより、発話量が増えました。」
とのコメントに、会議に出席されてたほとんどの先生が「素晴らしい!」って反応だったんです。
私はその時「エッ?」って思いました。
これ、どうしてだか分かります?
どういう事かというと、「発話量が増えたことを評価する」ってことは、
発話量が増える=会話の能力が上がる
ことを前提としての反応なんですが、私にはそういう前提がなかったってことなんですよね。
私としては、
話の量が多い=話が長いってことで、会話って長けりゃいいってもんではなく、伝え方と中身のほうが重要。むしろ簡潔に短くまとめつつ要点を押さえた発話のほうを評価したい
ってスタンスです。
あ、雑談は別です。あれはダラダラしてても全然問題なし。
問題なのはタスク的会話。
あと会話の量ではなく伝え方が重要って観点から書くと、初中級の学習者で時々見られるのですが、「〜てから」と「〜たあと」の違いや、「〜から」や「〜たら」の概念が理解できていないのか、例えば一日の行動を全部「〜て」で繋ぎ、非常に冗長な文を発話する人がいます。
こんな感じ。
・朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、ジョギングをして、シャワーを浴びて、朝ごはんを作って食べて・・・
的な発話。
こういう文って、最後のほうに差し掛かると最初何をどうしたのか、聞いてるほうは忘れちゃったりします。
そうではなくて、例えば、
・私は太りたくないから、朝起きて顔を洗って歯を磨いてから、毎朝ジョギングをしています。ジョギングが終わったら、シャワーを浴びて、朝ごはんを作って食べます。
こっちのほうがスッと入ってきませんか?
どちらの会話の能力が高いかは、いうまでもないでしょう。
会話の中身の点で書くと、初中級に入ったあたりから意見が言えるようになるので、聞きかじりの通り一遍でない意見が言えるってことを評価したい。
奇をてらってなくても自分なりの意見が言えるかどうかを、私は会話の能力の基準になると考えているから。
最後に、よりコンパクトな発話を評価したい理由について。
会話の能力が高ければ、会話が短くても長い発話より情報量を多くすることが可能に。
何がそんなことが可能にするのかというと、
幅広く日本語の語彙を知っていて、その中から適切なものを選べる
能力を持っているってこと。
こちらご覧下さい。
おあずけになったデートにがっかりしていたけど
これは、槇原敬之さんの「SPY」という歌の冒頭部分の歌詞です。
この部分の情報量の多さ、分かります?
解説すると、
主人公の男性と(おそらく恋人の)女性がデートの約束をしていたにもかかわらず、デートをする前に女性から延期(あるいは中止)を求められ男性も了承する。がっかりしていたものの、男性にとって嬉しいことが起きる可能性が暗示されている
ってことを22文字だけで表現してるんです。
これ、凄くないですか?
一応、YouTube貼っておきます。
まあここまで高度でなくても、どの語彙を選ぶかによって発話量が多くなくても情報量を増やすことが可能なんですよね。
そしてその前提として広範な日本語の語彙を知っていて、かつ適切に選ぶことができるのは、れっきとした会話のスキルだと考えています。
こう考えてくると、単純に「学習者の発話量が増える=会話の能力が上がる」とは必ずしも考えられないんじゃないでしょうか?
ほな、さいなら!
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