思考の方法

2023年08月14日

2つの「〜たり…たり」とバックキャスティング思考

先日の教材研究勉強会を自分なりに振り返って、色々と学びがあったのでシェアします。



勉強会を主催したりその中で講師をしたりすると、本当に多くのことが学べるんだなと再認識。

何が学びだったかというと、

1 初級文法の分析の度合い

2 日本語文法を具体的にバックキャスティング思考で考える方法

についてです。

まず、1についてですが、先生方と話していて「アレ?ここまで分析して授業で提示してるのって、私だけ?」って思えることがあったんですよね。

それが、「〜たり…たり」です。

これを読んでいる日本語教師の方、この文法を授業で扱うときに、どんな説明や練習を準備しますか?

おそらく、例えば、

・私は休みの日には、音楽をきいたり映画を見たりしています。

・私は日本で富士山に登ったり温泉旅館に泊まったりしてみたいです。

・母は仕事をしたり家事をしたりして、いつも忙しそうです。

っていうような例文を準備するんじゃないでしょうか。

まあ一般的にはそうですよね。

複数(3つ以上)の動作や行動の中から2つをピックアップして述べる表現。

でもね、これだけでいいですかね?

私もかつてはこれだけしか教えていませんでした。

ところが、

・彼は落ち着かない様子で廊下を行ったり来たりしている。

・今日は変な天気で、雨が降ったり止んだりしている。

っていう「〜たり…たり」もありますよね?

簡単に説明すると、

対照的な動作や変化を当てはめることによって、繰り返しや状況の継続を表す表現

ってこと。

因みに寛容的な表現が多いので語順が大事。(例えば「来たり行ったり」とか「止んだり降ったり」にはならない)

この「〜たり…たり」って、あなただったら初級で教えますか?

教科書に出てきている/出てきていないっていうことは取っ払って、0ベースで考えてみてください。


結論から書くと、私なら初級で教えます。

理由は以下の2つ。

1 中級以降の教材でこの文法を扱っているものが少なく、初級で教えておかないと学習者がこの存在を知らないままになるから

2 上級で「〜つ…つ」っていう文法が出てくるから

です。

1はそのまんまです。

学習者がこの「〜たり…たり」を知らずに、例えば普段の生活でこれに触れると戸惑うと思うんですよね。

言語に敏感である学習者であればあるほど困惑しそう。

2については説明が必要ですね。

旧日本語能力試験の1級の中に「この〜つ…つ」というのがあります。

どういうものかというと、

・今日の試合は点を取りつ取られつで、手に汗を握る面白い試合だった。

・社会は持ちつ持たれつで成り立っている。

・しばらくの間、入口の前で行きつ戻りつしていたが、とうとう意を決して入って行った。

他には、押しつ押されつ、追いつ追われつ、さしつさされつ、などがあるでしょうか。

何が言いたいかというと、初級の段階で2つ目の「〜たり…たり」を知っていれば、上級でこの「〜つ…つ」が出てきても文型理解の負担が少ないってこと。

あなたはどう思いますか?


そのことともう1つ思うのが、

バックキャスティング思考って大事だ

ってこと。

例えば、もし中級の日本語も上級の日本語もよく知っている教師Aと、初級の日本語しか知らない教師Bがいた場合、2つ目の「〜たり…たり」を初級で教えるかどうかも含め、様々な局面で判断が異なるのは想像に難くありませんよね?

あなたはバックキャスティング(ゴールを設定して逆算して考える)思考ですか?それともフォアキャスティング(スタートから積み上げて考えていく)思考ですか?


ほな、さいなら!



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akky_san at 19:39|PermalinkComments(0)

2023年06月02日

学習者起点とトレードオフ

何だか最近、日本語学校とか日本語教師の人って、ことごとく教師起点だなってつくづく思うことが多いです。

教師起点っていうのは教師サイドの信念や方針を出発点として思考をスタートさせるってこと。

それに対して、学習者起点っていうのは、楽手者側からのニーズやウォンツ、要望などから考え始めていくこと。

私がこのブログでずっと書いてきた「学習者ファースト」も私の中では同義です。

以前こんなエントリを書いていますが、




依然として教師起点って流れは変わらないのだなと思って、今回のエントリを書いています。 

いくら学習者のためって思っていても、それが教師側からの発せられたものであれば、それは教師起点ってことになります。

 
で、ここにトレードオフである価値Aと価値Bがあるとします。

トレードオフというのは何回も書いていますが、あちらを立てればこちらが立たずといったような、両立させるのが不可能な関係のこと。

これを理解してない人って結構多い。

その結果、二兎を追うものになってしまい、どちらの価値も獲得できなかったり中途半端な結果になっているっていう。

私が2拠点居住をしている備前市の例を出すとわかりやすいかもしれません。

備前市は備前焼が有名で、伊部という街に備前焼のお店が集中しているんですが、観光客や買い物客は土日も非常に少ないです。

大阪では、こんな所まで来て何を見るの?って聞きたくなるような何もない住宅地などにも外国人観光客を見たりするので、それを考えると非常に外国人が好きそうなエリアである伊部に外国人がほぼいないのにはちょっとビックリします。

このような状況の最も大きい理由は、ネットやSNSなどへの発疹が非常に少ないってこと。

それでも来たお客さんが少なくても備前焼を買ってくれればいいのですが、あまり売れていません。

なぜなのか?

それは単純で、「お客さんの欲しい作品がないから」

です。

つまり、備前焼作家起点になっているってこと。

作家さんはマーケターではないので、統計的なデータを集めどういうニーズがあるのか、などということを調べたりしません。

結果的に作家さんが作りたいものや、「多分こういう作品なら売れるだろう」という根拠のない思い込みで作品を作ったけど売れないっていう。

もちろん作家さんはアーティストでもあるので、作りたいものを作ればいいとも思うのですが、もしそうであれば「もっと売りたい」とか「もっと売れてほしい」という願望を持つのは間違っているのでは?

つまり、ここでトレードオフになっているのは、作家さん起点と消費者起点です。


ここで日本語教師に話を戻すと、同じように教師起点と学習者起点はトレードオフになっています。

それに加えて、これ以外にも日本語教育には様々なトレードオフが存在します。

例えば、4技能をバランスよく伸ばす、というのと、とにかく話せるようにさせる、というものです。

また、漢字の授業をしない、と、日本語の語彙力を増やす、というのもトレードオフ。

そして、初級でできるだけ文法を教えない、ということと、中級以上のレベルに引き上げる、もそう。

思うような成果が出せていない日本語学校は、このトレードオフが理解できていないのではないのかな、と。

ここで、これを読んでいる日本語教師の方に聞きたいのですが、成果Aと成果Bがトレードオフだった場合、あなたはどうしますか?

もし私なら、学習者にどっちの成果が欲しいか聞きますね。

非常にシンプルじゃないですかね?

仮に、独特な進め方をする教材があり、それで教わるとJLPTに合格しにくいといった状況があった場合、私だったらその教材で教わることで得られる成果と、JLPTの合格とどっちの成果が望ましいか聞くだろうと思います。

もちろん、私に教材選択の決定権がある立場であれば、の話ではありますけど。

私は、教師の面子や立場、信念よりも、学習者の求めることに応えることのほうがプライオリティが高いと考えているからです。

本当にもうそろそろ教師起点から脱却してもいい時期に来ているんじゃないか、と思います。


ほな、さいなら!

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akky_san at 19:34|PermalinkComments(0)

2022年12月03日

文型など日本語使用の必然性を高めるのに有効なこと

先日のエントリ




の後半部分についてなんですが、このエントリを書いた後にちょっと思いついたことがあるので、今回はそれについて書いてみます。 

このエントリでは、ある特定の文型の説明をするのに「その文型でなければならない内容がいいんじゃないの?」という旨のことを書きました。

しかし、私自身も以前はあまり

表現意図に忠実で、かつその文型を使う必然性が高い例文を考えよう 

って発想はありませんでした。

いつからこういう発想をするようになったかというと、

ブログを書き始めてから

ってことになると思います。

それまでは私はあくまで教師目線でしか例文を考えていなかったのですが、ブログを書き始めてからというもの常に

「今伝えたい内容を最も忠実に表す日本語は何か?」

ってことを考えるようになったんです。

教師として学習者に教えよう(=インプット側)から、ブログで伝えたいことを書こう(=アウトプット側)へのシフトチェンジがあったってことですかね。

というか、インプットからの視点にアウトプットからの視点が加わったといったほうが近いかも。

同じ文型であっても、それまでは「この文型をどうやったら正確に教えることができるだろう」ってベクトルだけだったのが、「自分が伝えたいことに一番しっくりくるのはこの文型だ」という方向性でも考えられるようになったってこと。

前者は「文型ありき」で、後者は「伝えたいことありき」とも言えます。

私は個人的に、こういう方向性での文型をはじめとする日本語の捉え方ができるようになったのって、とてもラッキーだったと考えています。

パラダイムシフトに近いくらい、見えているものが変わったから。

なので、例えば「他の類似文型で言い換えられる例文しか思い付かない人」は、

ブログやTwitterなどで何らかのアウトプットを定期的に行う

のがいいんじゃないでしょうか?

Twitterなんかは140文字って制限があるので、ある程度の内容を伝えたい場合にはかなり日本語を吟味する必要が出てきて、良い練習になりそう。

ただし、

あくまで伝えたいことがある人

に限られます。

特に伝えたいこともないのに、日本語使用の必然性を高めるためだけにアウトプットするのって、手段が目的化しているってことだし、そもそも本末転倒です。

逆に、それが正しいかどうかなどは別にして、自分のアタマで考えている人なんかは些細なことでもアウトプットしたいって欲求があるのでは?

最初はあまり意識せずにアウトプットすることだけを考えて、徐々に内容を吟味しながら最も言いたいことにピッタリな日本語は何かってことを考えていくといいんじゃないかな、と思います。

そうすると、今までは見えていなかったものが見えてくるはず。

ちょっとずつ自分のできる範囲で初めてみてはいかがでしょうか?


ほな、さいなら!


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akky_san at 19:30|PermalinkComments(0)

2022年12月01日

「〜にともなって」って文型から考えられる2つのこと

ちょっとここ最近、個人的に「〜にともなって」って文型に絡んで考えたことが2つあるので、今回はそれについて考えてみました。

この「〜にともなって」って、あなたはどう教えますか?

おそらく多くの日本語教師の方は「AにともなってB」(AがXでBがYでもいいんですけど)って形だったら、

Aが変化するとBも一緒に変化する

って説明をするんじゃないかと。

まあこの説明自体は間違いではありません。

しかしながら、この説明だけで十分でしょうか?

ここで、私が考えた1つ目のこと。

それだけで全てが説明できるか?

って観点。

おそらく上記の説明だけであれば必然的にAもBも変化を表す言葉(増加、減少、拡大、縮小、上昇、下降などの名詞やそれらの動詞バージョン)が入ると思うのですが、本当にそれだけですか?

私が最近「〜にともなって(ともない)」って文型を最もよく聞くのが、ローカルニュースなどで出てくる「任期満了にともない、来月◯◯市長選挙が行われます。」といった文章。

満了って、変化ですかね?

これ、「満了する」って動詞にすると分かりやすいと思うんですけど、瞬間動詞じゃないでしょうか?それに「行う」も変化とは言えません。

あるいは「工事に伴う通行規制のお知らせ」なんかでも、「工事」も「通行規制」も変化とは言えませんよね?

「メニューのリニューアルにともない、現在の一部のメニューの提供を終了させていただきます。」とかも。

これらの文を学習者が目にしたときに、上記の説明しかしてもらってないと混乱するのは想像に難くありません。

言語感覚が敏感である人ほど、矛盾を感じるはず。

これらの例文は、

Aという出来事が起き、Bという出来事が起きる(Bという事態が生じる)

って意味だと思うんですが、いかがでしょう?


つまり、例えば

1つの説明だけが全ての文に当てはまるのかを考え、その上で説明しきれない文が存在すると気づいたら「分けて考える」

ことが必要になってくるんですよね。


で、もう1つについて。

「〜にともなって」のたくさんの例文を見たり聞いたりして私が考えたのは、

「〜にともなって」を使う必然性が低い例文がそこそこある

ってこと。

類似文型の「〜とともに」を使っても問題はないし、「〜につれて」や「〜にしたがって」を用いても何ら支障のない例文が多いんです。

もちろん、言い換え可能なケースも多々あるのですが、せっかくだったら

類似文型ではダメで、その文型でなければ表現しきれない内容の例文

を提示したほうが学習者にとっては腹落ちしやすくなります。

これ、私がスペイン語を学習してて常々感じることでもあるのですが、複数の文法を提示されて「どれも似たような意味です」とか言われると、すごくモヤッとするんですよね。

むしろ「いくら細かくてもいいから、違いがあるんだったらそれを教えて」って思っちゃう。

あるいは、言い換え可能な文でもいいから、例えば、

・人口の増加とともに、さまざまな問題が出てきた。

・人口の増加にともない、さまざまな問題が出てきた。

・人口の増加にしたがって、さまざまな問題が出てきた。

という3つの文の違いを教えてほしい。

つまり、言い換え可能なこのような例文を提示すると、おそらくその違いを学習者から聞かれることになります。

これを読んでるあなた、この3つの文の違いを学習者に明瞭に説明できますか?

私は個人的に、こういう「前も変化、後も変化」っていうパターンの文型の違いは「タイムラグ」にあるのかなと考えています。

また、私が前述した「出来事系」のほうは、前後の関係性にヒントがあるのかなという気がします。


あなたはどう考えますか?


ほな、さいなら!


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akky_san at 20:00|PermalinkComments(0)

2021年06月28日

曖昧な概念を定義(言語化)しよう

SNS上で日本語教師同士の議論が不毛であることが多い気がします。

理由のいくつかはこちらのエントリに書いてます。




で、今回はそれ以外にも理由があるんじゃないかと思い、それについて書いていきます。 


上記のエントリの理由以外で議論が噛み合わない理由として、

曖昧な概念を定義せずその人なりの主観的な解釈で意見表明するから

っていうのがあります。 

ある概念を理解していると自分では思っていても、頭の中のイメージだけではフワッとしすぎていて、それが言語化できないということであればはっきりとは理解できていないという可能性が高いです。

言語化して初めて理解できるってことは往往にしてあったりしますし。

というわけで、私が日本語教育の文脈でよく持ち出される抽象的な概念を挙げていくので、これを読んでる人にはその定義を自分なりに考えてもらいたいと考えています。

まずは、

文法と文型、それぞれの定義

です。

これ、かなり混同して使われていますよね。 

もっと細かく書くと、例えば日本語教師の発信の中の「文型」って言葉は、その文脈では「文法」と代替可能なケースがあります。

例えば、行動中心アプローチを肯定し「文型積み上げ」に対する批判意見の中の譲歩部分で「とはいえ行動中心アプローチも文法を教えないわけではない」って意見があり、それを見て私は正直「文型積み上げの話なのに、何で文法が出てくるの?」って思っちゃいました。

おそらくこういう日本語教師って、あんまり文法って言葉や文型って言葉へのこだわりがなくて、その時の気分によってどっちを使うか決めてるって印象を受けます。

私の定義では「文法」と「文型」は全く別物なんですけどね。

っていうか、そもそもテキスト自体がこのあたりの区別が曖昧なんですよね。

「N2 文法」って謳ってるテキストに文型ばっかり載ってたりしますし。

ってか「N2 文型」ってテキストって見たことないです。


そしてこの流れで

文型積み上げ

って言葉も解釈が人によって様々。

これも、SNSで批判的な立場の人の発言を見ていると、「文型積み上げ」というより「文型詰め込み」っていう理解をしてるんじゃないの、と思わされることも。

ちなみに私の「文型積み上げ」の定義で考えた場合、「みんなの日本語」ってテキストは文型積み上げじゃないんですよね。

教師の力量によってはこのテキストを文型積み上げって手法で扱うことは可能ですが、そのためには教師がテキスト全体を見た上で何をどのタイミングで教えるのかを把握してしまわないと難しい。

それに、教師1人がそういう作業を行っても、同レベルの他のクラスではそういう授業が行われないので、文型積み上げをやるんだったら学校単位でやる必要があります。

この文型積み上げって概念が定義できれば、この概念を批判すること自体にあまり意味がないってことが理解できるかもしれません。


そして、

初級、中級、上級

って概念も言語化できる教師は少ないのでは?

私はこのブログでこれまでにも散々書いてきましたが、JLPTのN◯がどのレベルに相当するかや、初級のテキストに載ってるから初級であるなどといった定義ではなく、自分なりにそれぞれのレベルとはどういったものかを言語化したほうがいいと考えます。

例えば、初級というのはどういうことができ(あるいはできない)、どこからどこまでの範囲がそれに該当するのか、といったようなザックリとした定義を、個々の日本語教師が持ってもいいのでは?

逆にあまり具体的に定義しようとすると、かなり細部まで入り込んでしまいます。


このようなレベルの定義はもちろん一般的な日本語学校にお勤めの先生にも必要ですが、「やさしい日本語」に携わってる先生に、より必要になってくるのではないでしょうか?

こういうことが教師の中で曖昧なままだと、教える側も教わる側も相当しんどい。

やさしい日本語のサプライサイドの人間の日本語レベルの定義が不明瞭な状況で進めてしまうと、同じ日本語でも教師によって初級レベルで扱ったり中級レベルだと判断したりする恐れがあり、学習者の混乱は必至です。

これ、関わる人全員がツラいです。

せめて「やさしい日本語」なのか「やさしくない日本語(そんなのあるの?)」なのかくらいは区別できてないと。

今日本語教師として働いてる方の中には「そんな余計なことを考えてる時間なんてないよ」って思う人もいるかもしれません。

が、私の経験から考えると、私がこういうことを考えたのって日本語教師歴10年以上過ぎた頃で、いまになって考えるとキャリア5〜6年目でこういうことを考えておけば、それ以降の自分の授業はもっと深まっていただろうなと考えます。

平たく書くと、もっと早く考えておけばよかったと後悔してるわけです。


現在の状況って、日本語教育関係者にとっては非常にツラい時期ですが、ポジティブに考えると従来の閉塞感を打破してパラダイムを転換するチャンスであるともいえます。

なのでその一歩として、日本語教師が今まで「そんなこと考える必要ないでしょ」としてきた曖昧な概念を0ベースで考えて定義することによって、日本語教育をより良い方向へ向かわせることができたらいいなって思ってます。


もしまた私が勉強会を主催するのであれば、参加者同士であーでもないこーでもないって言い合うことによってこういう本質的なことを考えるきっかけを作る場にしてもいいのかな、とも思ったり。


これを読んでる方、ここであげた抽象概念を自分なりに定義して見てはいかがでしょうか。


ほな、さいなら!


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